第33話 境界に立つ者

「そろそろ行くぞ」

 

 朝食を済ませたライセとノアが髑髏亭を出ると、外ではアインが待っていた。

 朝日に照らされたスラムの街並みが目に入ってくる。夜に比べるとだいぶ落ち着いているがそれでもやはり治安が良いとは言えない雰囲気を漂わせていた。

 朝靄に包まれた通りはしんと静まり返っており、人の数はまばらだ。石畳を踏みしめる三人の足音がやけに大きく響く。


 この地方はやや寒冷地なのか日中は心地よい温かさでも早朝となると肌寒い。

 通りの端では数人の人間がゴミを燃やして暖を取っていた。ライセたちが横切ると、彼ら彼女らは値踏みするかのような視線で見つめ小声で何かをひそひそと話し合っている。


「おい、昨日のガルバの情けない姿、見たか?」

「ああ、あんなにイキがってた野郎が、チビりながら逃げ出してたもんな」

「新参者のくせに、調子に乗るからよ」

「でも、相手は一体誰だったんだ?」

「髑髏亭の――ほら、あの吸血鬼に喧嘩売ったそうよ」

「バカだねぇ……あんな醜態晒したんじゃ、もうこの街にゃいられねえだろうよ」


(昨日のこともう噂になってますね……)

(まあ、あれだけ派手にやればね……)


 ライセとノアはヒソヒソと話す住民たちを横目にそう思った。視線を前に移すと一歩前を歩くアインの背中が目に入る。

 彼は住民たちの視線や噂話なぞどこ吹く風で堂々と歩を進めている。まるでこの程度のことは日常茶飯事と言わんばかりだ。


 スラムを抜け歓楽街、そして中央広場にたどり着く。朝でも陰鬱とした空気の漂うスラムと違ってここは活気に満ち溢れていた。

 ライセはすぅっと深呼吸する。肺一杯に新鮮な空気が流れ込んでくる感覚があった。人々の喧騒、露店の準備をする人々の活気。

 人間の陽の気で満ち溢れた空間は、それだけで活力を与えてくれるような気がする。

 そんなライセの様子にアインが声をかけた。


「……ライセ、やはり宿を変えるべきだと思うが。スラムはお前たちのような娘がいるべき場所じゃあない」

「何を言うかと思えばまだそんなこと言ってるの? 私たちが納得してネーヴィアさんところに厄介になると決めたんだから」


 ライセの言葉にノアもこくこくと頷く。

 口調は相変わらずだが彼なりに心配しているようだ。しかし、今のライセたちにとってあそこが生活の拠点であり、住処でもあると決めたのだ。


「……そうか」

「ま、心配してくれてありがと。正直言うとああいう人たちにまともに悪意と敵意を向けられるのは初めてだからちょっと怖かったけどね」


 ライセはそう言い、オーバーな身振りでおどけて見せるが、その表情にはどこか影が残っていたことをノアは見逃さなかった。

 そしてそれは自分も同じだということ。ノアは人間という存在のことを知識としては知っていた。

 善い人間もいるし悪い人間もいるのだということも知っている。けれど実際にこうして他者の悪意と敵意に直面してみると冷静ではいられなく、恐怖が先に立つことを知った。

 この感覚は天使の――否、ドローンという機械の体では感じえなかったものなのだろう。


 依然としてエデン・エデンバーには接続できず、自分が機械なのか人間なのか曖昧なまま。


(わたしは、いったいどっちなんだろう……?)


 ノアはふとそんなことを考える。そして気づく。

 仮想世界に存在した自我を現実世界へ転送されたライセ。

 死者と生者の狭間で生きるアイン。

 そして機械から人間になったノア。


 自分たち三人は三者三様で曖昧なものの境界に立っている存在だということ。


(わたしが今ここにいるのは本当に偶然なのかな……? それとも何者かの意思が働いてるのかな……)


 堕天使に汚染され、自身のシステムをNOAH本体から切り離した後は消滅するか同じ堕天使に堕ちるかのどちらかだったはずだ。

 しかし、自分はライセの力によって人間として再構成された。それそのものは全くの偶然であり、何者かの意思が介在するかは考えられない。

 問題はその後だ。ノアはエデン・エンデバーから接続をブロックされているのにもかかわらず、自身の本体であるNOAHへ接続し魔法を行使できた。

 マナを――ナノマシンを制御して杖状の武器を形成した。あの時はライセに守られてばかりじゃいられないと無我夢中なところもあった。しかし冷静に考えると不可思議な点も多い。


 本当に汚染を警戒しての一時的なブロックならば、NOAHへの接続もブロックされているはずなのでは?


(エデン・エンデバー……あなたはわたしとライセさんに何をさせたいの……?)


 現在のノアはかつての知識を有していない。否、あれは知識と言っていいのだろうか?

 確かにかつてのノアはNOAHの端末としてエデン・エンデバーのデータベースにアクセスできていた。

 しかし、それはアクセスできるというだけで、そのデータベースで得た知識を何かに役立てようという意思は存在しなかった。あるとすれば同行する人間の要求で照会するのみだ。

 

 ヒトの肉体を得たことで、エデン・エンデバーとの繋がりを断たれた今のノアはこの世界の人類の一般常識レベルの知識と――この星がテラフォーミングに至った概要、エデン・エンデバーにアクセスするゲストアカウントレベルの情報しか持ち合わせていない。

 かの方舟の意思決定プロセスという深いアクセスレベルの情報は失われてしまっている。

 

 方舟から舫をほどかれヒトの営みという大海に投げ出された彼女はさながら楽園エデンを追われたアダムとイヴのよう――


 ノアは空を見上げる、日中がゆえにまだ月は昇っていない。

 このエレウシス4の天上遥か彼方の月周回軌道――冷たい暗黒の空でかの方舟は今もなお孤独にこの大地を見下ろしている。

 地球を旅立ち長い長い航海の果てにこの大地に根を下ろした今の人類を見守るエデン・エンデバーの心境とはどんなものなのだろうか。

 ノアは自身がシステムの一部だった時には思いもしなかった――思うという概念すらもなかった。


「どうしたのノア? ぼけっと空なんか見上げちゃってさ?」

「えっ!? いえ、ちょっとうわの空だったみたいです……」


 不意にライセに声をかけられてノアはハッと我に返る。気づけばギルド会館に到着していた。

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