甘やかしたがりな恋人

『それで週一でご飯を作りに? 通い妻じゃん』


 通話を繋いだままの美緒が、電波の向こうで笑う。交際を始めた話をしたときこそものすごく驚いていたが、『でも、思えばそういう気配はあったかも』とオープンキャンパスからの日々を振り返っていた。


『後からじゃなんとでも言えるっていう話かもしんないけどさ。驚いたのは推しに告白されちゃったレナの状況であって、あのゆずりはの必死さを踏まえたら別に意外なことでもないっていうか』


 言って、ごくごくとビールを飲む音が鼓膜に響く。キッチンのカウンターに置いたスマホに苦笑いをした。


「ご飯は、会社が忙しくない時期だけね。やっぱりちょっと遠いし……。色々リクエストを聞いてるんだけど、トマト料理が好きなんだって」

『ふ、赤いから?』

「元気が出る色が好みっていうのはあるかもしれない」


 ザク、とレモンを刻む。今晩は冷製パスタだ。サラダを添えて、サッパリとさせる。


『それであれか、今晩はVの姿のお披露目か』

「あぁ〜緊張する〜……!! どうしよう、うまくいくかなぁ!?」

『ちょっと手元、気をつけてよね。すごい勢いでザクザクいってんの聞こえてるから』


 ハッとして包丁を置いた。レモンが予定より細かくなってしまった。仕方ない、気を取り直してパスタに散らすように盛り付けていく。


『じゃー通話はそろそろ切ろうかね。私は私であとで見とくから。ゆずりはのVデビューと、レナのママデビュー』

「一緒に見てほしかった……」

『仕方ないでしょ、私だってリアタイしたかったけど。じゃあね。1回だけの機会なんだから、楽しんでおいで』

「はーい。おやすみ、姪っ子ちゃんによろしく」


 通話画面が終了すると、配信の予告の通知が目に入る。ああ、落ち着かない。自分なりに頑張ったのだけど、これが推しとイコールの姿になるのだと思うとそわそわする。


 こういうときの時間の経過の感覚はなんとも言いようがない。待ち遠しくて何度も時計を見るせいで長い針はなかなか進まないし、かといって開始までに心の準備をしようと思うとあっという間に猶予がなくなっていく。


 そうこうしている内に、スマホのアラームが鳴った。今晩の配信の開始時間は少し早めなのだ。一応夕食はできたし、食べながら流していればいいはずなのだが、最初の数口でフォークを持つ手が止まってしまう。


『こんばんは、文織ゆずりはですー! 見えてます? って、オレはちょっと離れてるんですけど』


 画面はいつもの通りだ。森から見る星空の写真に、コメントが縦に流れていく。


『今日はオレの姿の初披露ってことで。――そう、無事ママにお仕立てして貰ったんですよ! アタックした甲斐がありました! えー楽しみ? オレも皆の前に出んのめちゃくちゃ楽しみ!』


 一旦画面が切り替わる。“支度”を済ませたゆずりはの、赤い髪だけが覗き込むようにちらっと見えた。羽も少し映り込んでいる。それだけでコメント欄は大賑わいだ。期待と歓喜のメッセージが濁流のごとく流れる。


 やがて、飛び出るようにしてゆずりはが画面の真ん中に躍り出た。


『改めまして、文織ゆずりはです! 天界と人間界の狭間で図書館の司書をやっています。人間界に降りていっては本を調達して、皆に届ける天使です。よろしくお願いしまーっす!』


 にぱっとした笑顔に八重歯が覗く。ふさっとしたフクロウの羽が大きく揺れた。このあたりはパパ……紬のサークル仲間が腕を見せてくれたところだ。ふんわりとした動きと、呼吸できちんと上下するモデルに、玲奈は「生きてる……」と手を合わせて拝んでしまう。ゆずりはに、またモデリングをしてくれたパパに大いに感謝だ。


 コメントが目で拾いきれない勢いで流れていく。白い服に、金色の刺繍を施した。肩にかけたレースは頑張って細かく描いた。全体的に、天使だからと白を基調にデザインしたものだ。ありがたいことに、かっこいい、かわいいという歓声で画面が埋まっていく。


『どお〜? いいっしょ、このお洋服! うはー、上がるー! ほら、これウィンク。練習したんだからぁー』

「喜んでるゆずりはくん、健康に良い……! お祝いです!」


 すいすいと投げ銭をする。生き生きとしている推し、素晴らしい!


 するとそのスパチャを見つけたらしいゆずりはがけらけら笑い出した。


『ちょっとぉ! ママがお祝いくれたんだけど! 産んでくれた親が誕生日を祝ってくれるみたいなもんかな? ありがとう、たかのりママ!』


 リスナーさんだ、ありがとうたかのりママ、と追尾するように感謝のコメントが連なっていく。心地よく配信に来れるように、と日頃から試聴マナーのガイドラインを設けているゆずりはの配信は、基本的に雰囲気が良い。いつものノリで投げ銭をして邪魔をしただろうか、と即座に反省したので、ほっと胸を撫で下ろす。天使の姿の反応は上々だ。どきどきとしたままコメントを目で追って、好意的な言葉が並んでいることに再び安堵した。


『この流れで紹介しちゃいますけど、たかのりママとサイケパンダパパのアカウントはこちら。お二人とも超真剣に考えてくれてさぁー、もう絶対この人たちじゃなきゃって決めてたからお願いできてマジで嬉しいです!』


 にこにこ! と音でも聞こえてきそうな笑顔だ。はあ、喋っているところに姿と動きが付くってすごく良い。感情がよく伝わってきて、推しがそこにいるのがわかる。首を傾げればちゃんと髪の毛が揺れるのがたまらない。悩みぬいたこの色は、きっと正解だ。


『初見さんいらっしゃい! Vtuberデビューしたてのゆずりはです! 今日はこのまま質問に答えたりコメント拾ってー、21時頃から朗読しよっかな。よかったら見ていってください!』


 入り口が広がるのはいいことだ。楽しみ! と新規のリスナーが言ってくれるので、こちらの口角も上がってしまう。


 結局パスタは食べないまま、麺が乾いていった。けれどそんなのはドレッシングを追加でかければいいだけのこと。


 画面に釘付けになりながら、彼を堪能する。自分のデザインした姿から推しの声がする違和感はすぐに感動に変わって、噛み締めるように見つめ続ける。なんだかもう、胸がいっぱいだ。生きててくれてありがとう……!


 配信が終わったのは23時だった。この日は寝落ちすることなく起きていられて、エンディングの終わりまで全部見きってからスマホをスタンドから取り外す。


 ようやくお腹が空いてきた。ふんふんと歌いながら麺をほぐしていると、ポコン、と通知音が鳴る。


『配信大成功ですね!』

『見にきてくれてありがとうございました』

『ちょっとだけ通話できますか?』


 そうして玲奈はまたも食事を食べ損ねた。けれど、それすら幸福だった。


 もちろん、と短く返事をして応答を待つ。電話はすぐにかかってきた。


 配信上では明かされることのない秘密の恋仲だ。幸福にむずつく口許をそのままに、指を滑らせる。

 耳に、玲奈だけに向けた優しい声が注がれる。



◆◆◆


 

 いつも美味しいご飯を作ってくれるお礼がしたい、と紬が言ってきたのは土曜日の夜だった。


 あれから推しの肌ツヤは申し分なし、健康になってくれただけでもファンとしては十分な返礼なのだけれど、正面の彼はどうしても譲らなかった。今晩のメニューはプチトマトを加えたラザニアで、追いチーズをしているタイミングでの申し出だ。さく、と程よく焦げたパン粉の部分を掬いながら玲奈は「そんなに言ってくれるなら、ありがたく受け取ろうかな」と苦笑した。


「でも何してくれるの?」

「七尾はるかの新作小説を持ってきました」

「ああ、今月出たやつ! はるかの作品はいつも天才だよね。それ欲しかったんだ」

「これを隣で寝落ちするまで読み上げようかと思ってます」


 ガチっとスプーンが歯に当たって、熱々のチーズが唇を火傷させる。


 放心したように言葉を失っていると、「先輩?」と顔を覗き込まれた。


「――いやいやいやそんな!? 職権濫用じゃない!?」

「ふふっなんすかそれ! 職権〜?」

「ファンサの独り占めは良くない!」

「彼女への日頃のお礼ですって」


 今日は早めにお風呂入りましょうね、なんて言いながら彼は輝くような笑顔でラザニアを食べている。


 玲奈といえば、あまりのことに頭が沸騰してしまいそうになっていた。正直、電話で耳もとで喋ってくれるだけでも相当な贅沢だというのに。すぐ隣で寝かしつけてくれることがあるなんて、聞いていない。


 形だけの抵抗にしかならなかったことは認めよう。目の前のご馳走を全て拒否できるほど玲奈は殊勝じゃなかった。だっていくらなんでも魅力的すぎる提案だった。そもそも、お仕立ての代金はしっかりと支払われたが、だからといってビジネスライクな関係では到底ない。紬と自分は、十全に恋人同士なのだ。甘やかしたがっている彼氏の提案を、恐縮しながら受け入れる。


「……寒くないですか?」


 秋になって、涼しい日が増えた。ほどほどに空調を入れつつ、2人でベッドに入る。紬は宣言した通りの小説を持ち込んでいた。一旦枕元に置きながら、「ガチガチじゃん」と笑う。


 直接触れているわけではないのに、あったかくって仕方ない。


「ちょっと喋ってリラックスします?」

「それすら生で聴けるのがなんかもう……ううん、もう言わない」

「じゃあオレがたかのりさんが初めて配信に来てくれて飛び上がったときの話でもしますか」

「絶妙に気になるトークテーマを選ぶね……」


 とん、とん、とお腹あたりの布団を優しく叩かれる。玲奈が、具合の悪い紬にできなかったことを、彼は今やってくれる。


「つっても、最初はレナ先輩だって気付かなかったんですけどね。でも予感はしていました。朗読が終わったあとでしてくれたコメント覚えてます? ……『こういう入り口があるなんて知らなかった。いいね』って」


 目を細めて、うっとりしたように語る声が耳にびわっと響く。はわわぁ、と声が出そうになって飲み込んだ。代わりに、「そんなこともあったね」と頷く。


「SNSのアカウントからレナ先輩に繋がったのは前に話した通りです。そのあとの配信ではもう、手汗かきまくりっすよ! うわ、レナ先輩がいる、うわぁあ! って。嬉しくて仕方なくて、だから来てくれるたびモチベ爆上がりで。逆に来ないときは、あーお仕事忙しい時期かーって」

「雑誌の締め切りが近いとねえ、担当以外のページも手伝わないといけなくて……」

「あ、いや残念は残念だとしても……じいちゃんや他の先輩たちからお仕事の話は聞いてたんで、お疲れさまですって気持ちでいましたよ。アーカイブ全部見てくれてるの知ってたし」

「やっぱり把握してたかぁ」

「感想を書き込んでくれてるじゃないですか、あっちのアカウントに。オレあれ読むの楽しみなんですよねー」


 あんなに気の向くままに書いた叫びを余すことなく見られているのは本当に落ち着かないのだけれど、さりとてどうしようもない。過去に戻ったとして、体の中で暴れ回るときめきを外に出さないなんてできるはずもない。溜め込みでもしたら、内側から爆発してしまう自信しかないのだ。紬の家で読んだタイムスリップものの小説は順当に未来を塗り替えていったけれど、玲奈に至っては三つ子の魂百まで、だ。


「でも今の先輩から聞きたいな」

「……何を?」

「推し語り」


 なんの羞恥プレイですか!? と身を丸める。けれど同じように身を屈めて掛け布団に潜った紬が、頬を包むようにして目を合わせてきた。聞きたいなぁ、と繰り返す。


「……こ、声が心地いいなって思ったのが始まりで」

「うんうん」

「特定の言葉の掠れ具合とか柔らかさが、中毒性が高いんだよね。たかのりって呼ばれるときの“か”がほんとに堪らなくて」

「マニアっすねぇ……」

「引いた?」

「全然」


 くすくすとした声が布団の中で響く。気持ちが緩んで、「あとね」と続けた。


「物語を読むときに、抑揚をよく研究してるんだなってわかる瞬間があって。そういう努力が見えるところも、最高のものを届けてくれるところも好き」

「めっちゃ練習してます。自分で配信見返して、ここもっと盛り上げられたなーってとこの反省とか」

「ずっと穏やかなテンポでいるのが似合う作品もあるでしょ。ちゃんと作品ごとに考えて読み方を変えているのもすごいなって」

「ゆずりは博士じゃん、先輩」


 頬に添えられた手が、褒めるように撫でてくる。ペットみたいだ、と過ぎりながらも嬉しそうな顔を見ると毒気なんて湧きもしなかった。きっとこれは、彼女扱いだ。


「喜怒哀楽がはっきりしてるのも好きだなって思う。って言っても、怒ったところなんて見たことないけど。常に屈託がないっていうか」

「感情豊かとは言われますね」

「雑談しながらお菓子食べてるときもあるよね。モデルができてから尚更、美味しそうに食べてる情景が浮かぶようで……あ、ご飯食べるときに手を合わせてお辞儀するところもね。ああいうの、良い」

「うん……?」

「外にご飯に行ったとき、お会計後にご馳走様でした、おいしかったですって言うのもね。ふふ、店員さんに丁寧なところを見てると、パンケーキを前に固まっちゃってた紬くんのことを思い出しちゃって……あ、褒めてる話だよ!?」


 失敗を指摘したようで、わたわたとすると、紬は自身の唇をむにゅむにゅと動かしながら、半ば笑っているような目つきでじっとこちらをねめつけた。


「先輩、先輩」

「うん」

「……だんだん、リアルのオレの話になってきてますけど」


 あ、と呟くと、抱き締められた。石鹸の香りがして、肩口に顎が当たる。腕の中でぎゅうぎゅうとされながら、目が回っていく。


「つっ……つむぎくん」


 押し付けられた胸の辺りから、ドクンドクンと鼓動が伝わってくる。おそらく、玲奈の心臓の音も聞こえてしまっているだろう。心臓を旅に出そう、なんて発想もままならないほどに、共鳴してしまう。


「えー!? えっ可愛いんですけど……!!」


 暑い。入浴した後なのに汗をかいてしまう気がして、身を離したい気持ちと、ここまで愛情を享受したい気持ちがないまぜになる。しばらくして紬は玲奈を解放してくれたけれど、こっちは目が回りっぱなしだ。こちらの呼吸が整っても、彼は片手に小説を持ちながら顔をデレデレとさせていた。ニヤケるのが止められないらしい。


「も、もう……早く読んで!」

「ふふ……はぁい、行きますよー」


 くつくつと笑いながら、空いた手で髪の毛を梳かされる。弾んでいた声が、ふいにトーンを落とした。


「――“『銀の猫』 目が覚めると、屋根から雫が滴って鼻を濡らしていた。“」


 甘くて程よく低い声は耳慣れているはずなのに、すぐ傍で語られると心への響きようがまるで違ってくる。合間に挟まる息継ぎや僅かなリップノイズなんかにも胸がときめいて、安心から体の力は抜けていくのに心は歓喜しっぱなしだった。


 ふと、彼のASMRを望んでいたことを思い出す。本人を前にするようになってから、浮かぶことの少なくなっていた希望だ。それが遠慮によるものなのか、満たされてしまったからなのかはわからない。でも、そうだ。こういう要望を、隣の彼に告げたら叶えてくれるだろうか。生憎、ありがたいことに? 推しの配信者は、玲奈に甘い恋人になってしまったので。


「……先輩? ……寝ちゃった?」


 囁くような声がする。瞼が重くてあがらない。あたたかな微睡みの中にゆっくりと沈んでいきながら、うん、と答えたつもりだった。


 動かない唇に、何かが触れた気がする。


「おやすみ」


 砂糖菓子のような声がして、そこで全部が真っ暗に沈んだ。


 その日はぐっすり眠った。多幸感に満たされて、全身がとろけていくようだった。 

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