フルーツティーと遠い夏

 買った本を席で読んでいい、本好きのためのカフェ。素晴らしいコンセプトを持ったお店だと思う。


 玲奈はずらりと並んだ本棚を熱心に眺めて、ほうと溜め息を吐いた。


「良い香り、程よい騒がしさ……流行りや有名タイトルばかりじゃなく良質な本も揃えられている棚から選び放題……!」

「ここ楽しいんですよねー。オレはよく配信のためのアイディアを貰いに来ます」


 パンケーキとフルーツティーを頼んで、テーブルの上に選り抜いた3冊を並べる。あまりににこにこしてしまっているからか、ふいに紬が吹き出した。


「よかった〜、生き生きしている先輩が見られて」

「慌てっぱなしで申し訳なかったです……」

「オレも、リスナーに会うのって初めてで。再会とはいえノリが間違ってたかもしれないんで気にしないでください」

「友達は活動のこと知ってるの?」

「いやぁ? 機材関係に強いサークル仲間と、年の離れた兄ちゃんを始めとした家族くらいっすね。あ、まあ進学してからは一人暮らしなんですけど」

「偉すぎる……!」


 大学生の一人暮らしは珍しくないが、学業に家事に、あとバイトなんかが入るとなかなかの忙しさになってしまう。代わりに家のことをしてくれる人間は基本的にはいないものなのだから当然だ。推しが頑張って生活している、ということに感激してしまう。思わず感謝をしてしまいそうだ。親御さんとか地球とか、そういう規模の大きいものにまで。


 話を聞く分には、彼の場合はバイトが配信活動に置き換わっているらしい。確かにまあ、自分も日々お布施をしている身だし、アーカイブも繰り返し再生しているので、お金が発生していることはわかる。こちらとしては推し活を楽しんでいるという感覚だから、払っている、という意識はそんなにないのだけれど。


「部屋は片付いてる方だと思うんですけどね。ただ配信の機材がかなりスペース取ってるけど。あー、そうだVデビューしたらもっと環境整えなくちゃな……個人的には防音設備が欲しいなって」

「防音室ってすごく高いっていうよねぇ。そういえば、うちの隣が角部屋なんだけど、前にお住まいだった人は気楽でいいって言ってたなぁ。そういうのもアリなんじゃない? 角部屋」


 助言になれば、と立てた人差し指を、紬は言葉を失ったようにして見つめていた。


 あれ? なんか変なこと言った?


「……それってあれですか、そこ今は空き部屋っていう……?」

「そうだけど……あ」


 ぐわっと体が熱くなる。失言も失言だ。まるで隣に越してこいと言わんばかりの発言をしてしまった!


「例としてね、例!」

「や、唯一のお隣が先輩んちなら、オレが深夜に配信してたって問題ないですよね。いつもそれまで起きててリアタイしてくれてるんだし」

「ねえ待って!!!」


 真面目に悩み出した様子にぶんぶんと首を振る。壁1枚隔ててゆずりはが本を読み上げてくれるなんて! 天地がひっくり返りそうな事態だ。少なくとも、玲奈にとっては。


「うう〜……!」

「……え!? 泣かなくても!?」

「ごめん、キャパオーバーしそう。他の話題に行こう……」


 無理やり笑ってみせる玲奈の前に、フルーツティーのガラスポットとカップが2つ置かれる。店員に紬とぺこりとお辞儀をした。桃、りんご、いちご、オレンジ。種類の様々な果肉がごろごろと紅茶の中に沈んでいて綺麗だ。空気を変えようと手を伸ばすと、それより早く紬の手がポットを持ち上げた。


「パンケーキって時間かかるんすよね。昼時で結構混んでるし。ゆっくり飲んでましょっか」


 コポコポと小気味の良い音を立てて、カップの中が満たされていく。湯気と一緒にふわっと香って、なんだかホッと気が抜けた。


「どこも空調きいてて寒かったんで、ホットもいいですよね」

「うん。……あ、これすごく美味しい」


 もうひとくち、こくりと飲み込んで味わうと、良い香りが鼻に抜けていく。解れた気持ちで、ゆっくりと息を吐いた。

 それから少しだけ、美味しいねと言い合うだけの会話をした。自分でも顔色が明るくなっているのがわかる。ここに来てから、なんだかとても落ち着くことができた。紬くんのお陰です、と言うと彼は嬉しそうにはにかんだ。


 やがて、カップに指をかけたまま紬がぽつりと「オレが高二の頃の話、してもいいですか」と言った。人の多い店内でも耳に染みるような声に、うん、と相槌を打つ。


「あの頃は、進路のことで悩んでたんです。どういう道にしようかなぁ、っていうのとはまた違ってて。オレの高校って、文理の選択は一年生の夏なんですよね。まだ将来のことなんて全然わかんなくて、友達がみんなそっち行くっていうだけで、文系クラスを選んじゃって。ノリで選んだ自業自得なんですけど、そのあとで理系教科の方が面白くなっちゃったんです」


 進学校やそれに準ずるような校風のところでは、早めの選択を迫られることがある。その方が、受験の対策がしやすいのだ。ただその後での進路変更がしづらかったりもする。相談したところで、先生に宥めすかされる場合だってある。


「ショックでした。大学で学ぶっていう時期が近付くにつれて、そもそも本だってまともに読み切ったことがないって気付いたのもあって。それで試したんですけど、ダメだったんすよね。文字ばっかりぶわーっとページ埋めてるのを読破するなんて。親が読書家で、家にはいっぱい本があるんですけど、堅苦しいのばっかりだなって。兄ちゃんは逆に難なく読む方だから、一層居心地が悪くなりました。だから家にいても、学校にいても、辟易した気持ちになることが多くなって」


 でも、と紬は言葉を切った。


 そして、玲奈をじっと見据える。赤い髪のかかった鳶色の目がこちらをとらえて離さない。


「大学のオープンキャンパスで、レナ先輩に会いました。当時は鬱々として行ったんで、印象が違ったと思うんですけど。そこで、親身になってくれたことを、オレはずっとよすがにしている」


 は、と息を飲んだ。玲奈が覚えていない、紬との邂逅だ。


 紬は懐かしむように、瞳を細めた。



◆◆◆



「本は、どういう入り口から読み出してもいいんだよ」


 この大学の卒業生の1人が、ふんわりと綺麗に切りそろえた髪を傾けて柔らかく笑う。1対1での面談で、彼女は真摯に自分に向き合ってくれた。


 志望校のひとつとして勧められたオープンキャンパスに、紬は来ていた。親と教師には実際の学校を見てくれば気分も上向くかもしれない、と背中を押されたが、正直なところここで何を問えばいいかわからなかった。


 大学に勤務していて、知恵を授けてくれるだろう祖父にも黙って来てしまった。彼は色々と順調だった兄のこと以上に自分を気にかけてくれているけれど、だからこそ進路については話しづらかった。幸い、この教室では姿が見当たらない。


 不貞腐れていなかったと言えば嘘になる。高校生活が始まって半年ぽっちで、大学の方向性まで決まってしまうなんて、と意義を唱えたくなる。


 ああ、だとしても。もっとよく考えるべきだった。


 自分は、物語のほんの数ページだってまともに読めないのに。


「でも僕は、……その入り口にどんなものがあるのかもわかりません」


 暗い声が出てしまった。所在なく俯くと、彼女は、そうだねえと口許に指を添えた。


「私の幼馴染もね、文章はあまり読む方じゃなくて。でも、一緒に本屋さんに行ったときに、2人でよく遊んでたゲームのノベライズがあったんだよね。シナリオはゲームに沿ってて、キャラクターなんかも頭に入ってるから読みやすかったんだと思う。その子はちょっとずつ、そのシリーズならっていう形で読むようになったかな。純文学には手が伸びなかったみたいだけど、それだって立派な読書だと私は思う」


 てっきり勉学方面の書籍の話になると思っていた紬は面食らった。親や教師があまり歓迎しないタイプの読み物かもしれない。けれど、先輩は繰り返す。どれだって尊い読書で、入り口はたくさんあるよ、と。


「……そういえば、僕はあまり登場人物の顔が思い浮かべられないんです。想像力がなくて」

「じゃあ、作っちゃおうか」

「え?」

「私、イメージできない人物は紙に絵で描いちゃう。歴史上の人物なんかもね、こういうの」


 見せるの恥ずかしいんだけどね、とポケットからスマホを出して見せてくれる。


 美しい女性のイラストに、“紫式部”とメモがされていた。


「ま、まあこれは趣味の一部でして……こんなに描き込まなくてもいいんだよ。棒人間に髪型とかで個性を付けたら役割は果たせる。そうじゃなかったら……うーんと」


 彼女がそう言って、少しの操作の後にややあって次に表示したのは大型通販サイトだった。


 書籍のページらしく、パッと見は漫画の一覧のようだ。


「教科書に載るような有名タイトルなんかは、漫画家さんやイラストレーターさんがかっこいい表紙を描いてくれているバージョンがあるんだよ。そうだなあ……ちょうど今って夏休みじゃない? 本屋さんに行くとたくさん積まれてるんだよね、宿題の読書感想文向きにそういう本が」


 イメージしやすくなるんじゃないかな、とタップされた画像は、確かに名前だけはよく知っている太宰治の作品だった。あんなに難しそうな本だったというのに、これなら幾分親しみが湧く。中には漫画から知っている絵柄もあった。


「他にも漫画や映画のノベライズだってあるし、物語じゃなくてエッセイなんかもある。日記っぽくて面白いよ。私はそういうものを、幅広い人に届ける仕事をしてるんだ」

「本を、届ける仕事……」

「私たちも、あなたたち読者も。興味のあるところに引っ掛けられたら勝ち」


 そのときのあたたかな笑みに、胸を貫かれるような感覚があった。マスカラで細かく伸ばされたまつ毛の下で、輝くような瞳が悪戯っぽくこちらを映していた。


 それから、先輩は有名なタイトルには易しい言葉で書き直されたものがあることも教えてくれた。子供向けであっても、少しも馬鹿にすることなく、間口を広げてくれようとよく考えてくれているのが伝わる。


 本を愛している人なんだ、と思う。デスク上のネームプレートに、高森と書かれているのをこっそり確認した。


 大学自体への質問は、思っていた以上のものができたと思う。


 本への興味の兆しが見えた気がしたこと。この先輩の話を、もっと聴きたいと思ったこと。おずおずと振った世間話なんかにも、持ち時間の中で先輩はちゃんと乗ってくれた。


 美しい紫式部の姿が頭の中でループする。


 この人は、他にどんな絵で人物を描いているのだろう?


 これまで関心を持てなかった人物、空想のキャラクターに至るまでを具現化して、どこかに掲載したりしているのだろうか。


「学校の事情も、家庭の事情もあると思う。違う道を提案することだってできるけど、あえて乗ってみることが功を奏するときもあるよ。強制力は、味方にだってできる」


 あの先輩がもう在校生ではないことを残念に思う。


 けれど、導いてもらった者として、縁を切らさないでいることはできる。紬は、スマホの連絡帳の中から、会う機会の減った祖父の番号を呼び出した。



◆◆◆



「……思い出した……」


 カップの中のものを飲むことを、途中から忘れていた。


 3年前の夏。あのときも、玲奈は千波先生の呼び掛けでオープンキャンパスの手伝いをしていた。見学者に向けての相談スペースで、確かに紬は玲奈のブースに座っていたのだ。


「オレはあれから勉強を頑張って、本を読むようになりました。最初の内はマジで、1ページごとに休憩を挟む勢いだったんですけど。でも、そうだな、本が怖くなくなりました。読み方や選び方で、読者に自由があるんだって知れました」


 紬はアドバイスの内のひとつ、易しい本から始めたそうだ。イラストも添えられていて、イメージの助けになったとか。それから、漫画タッチで描かれた表紙を見て、一度は挫折したタイトルを手にとって。やがて拗ねていた態度が前向きに変わっていって、本を借りたいと申し出た息子に父は驚いたという。読める体勢ができてから訪れた書斎は、全く違う景色になっていた。


「配信活動を始めたのも、レナ先輩がかっこよかったから。オレも、届けたいと思いました。朗読が、誰かに物語を届けることに繋がればって」


 大学に入ってからすぐ、文学散歩のドアを叩いて情報収集と読書スタイルのヒアリングをした。配信に載せてもいい本を探して、そこでできた友人には練習に付き合ってもらった。初めての配信は人が少なかったけれど、だんだんと活動は軌道に乗っていった。本を読むのが楽しい。読み上げ方にも気を使いながら、その作品に適した声色の研究をした。


 海外のリスナーからの感謝が寄せられたときには、じわりと胸が熱くなった。漢字を読めない人にも優しい配信であるということから、アーカイブを子供への読み聞かせ代わりに使わせて貰っているという旨の言葉も届いた。すっかりお話にハマってしまって、というメッセージに、涙が出そうになる。その子供が、漢字を習ってから自分でも同じ物語を読んでくれる日のことを思う。


 何もかもが充実した生活になった。読書の中で、理数が好きな気持ちが役立つこともあった。大学の授業だって熱心に取り組む気になったし、何より、意欲が湧いた。あの日、かけて貰った言葉で未来が拓けたのだ。触れ方のわからなかった本たちへと導いて貰えたおかげで。


「だから、先輩はオレの恩人です。今のオレを形作ってるのは、レナ先輩だから」


 あの迷子のような高校生のことを玲奈は思う。彼が、こうして生きやすくなって、生きるのが楽しくなってよかったと思う。きゅ、とカップに添えた指に力が籠る。


「先輩が応援してくれてるこの活動を、始めるきっかけも何もかもくれたのは先輩自身で、文章に景色をくれたのも先輩なんです。――お願いします。オレの姿は、先輩から貰いたい。その姿で、この活動を続けていきたいんです」


 つむじを見るのは2回目だ。それでも、下げられた頭に思うことには変化があった。


 こだわりの理由を知れて、玲奈の頭の中で彼の言葉が巡り出す。どうしても玲奈がいいという思いが、あのときの、撮り下ろしてくれる相手に声をかけるのだと緊張していた紬に繋がる。


 配信でとっておきの発表とともに今後の展望を語るゆずりはもだ。デザインを頼みに行く、と落ち着かない様子だった、上擦った声を思い出す。


 すぅっと心が決まっていく。胸の前で小さく拳を握って、彼を見つめる。


「そう言ってくれてありがとう。確かに私は、紬くんの背中を押したんだと思う。でも、そこから頑張った紬くんが偉いんだよ」


 慣れない文章に食らい付いたこと。楽しもうとしてくれたこと。それは彼の努力だ。履き違えたくない、大切なところ。


 それを踏まえた上で、そんな彼に、この活動に手を貸せるのが自分であるなら。


 胸の中の空気を入れ替えた。信念を持った目に、しっかりと目を合わせてお辞儀をする。


「わかりました。紬くんのお姿は、私がお仕立てします」

「っほんとですか!!?」


 ガタン、と椅子が揺れる。一瞬周囲の視線がこちらを向くけれど、あっと気付いて座り直せばすぐに関心は散っていってしまう。


「うは、うわぁー、やっば、嬉しい……! まじか、まじか~……!!」


 頬にぺたぺたと手をやりながら、子供のようにはしゃぎ喜ぶ紬に玲奈の心臓はどきどきと脈打っていた。体の中で感情が花火のように弾けている。フルーツティーを大きな口で飲んで胃に落とし、なんとか呼吸を整えようと努める。


「っはー、すいませんちょっと、テンション上がっちゃってる……!!」

「至らぬ点も、あるかと思いますが、……ご期待に添えられるように、がんばります」

「いやぁそんな、え、あ、握手していいっすか!?」

「なんで!?」

「――大変お待たせしました」


 間がいいのか悪いのか、パンケーキが届いてしまう。けれどもしかしたら、店員はできる限りで邪魔をしないようにタイミングを計ってくれたのかもしれない。申し訳ない。さりとてスポンジは冷めていく。クリームとベリーがたっぷりかかっているふわふわの生地に、手早くシロップをかけて微笑み去っていった。


 やり場のない手を中途半端に上げたまま固まっている紬に、ついついふふっと吹き出してしまう。ごめん、と口元を押さえた。


 すると彼はむくれた様子で、けれど喜びは続いているのか照れたように笑ってくれた。


「……食べよっか?」

「うはは……はぁい……」


 大人しくナイフとフォークを手に取って渡してくれるのを受け取る。


 玲奈は、このカフェに来る直前に取られた右手のことを思う。あの感覚でさえまだ消えていないのに、しっかりと握手なんかされたらいよいよ感触と体温が忘れられなくなる予感がした。


 そんなファンがいていいものか、と思うけれど、もう手遅れだ。先ほどの言葉で関係はすっかり変質してしまったのだから。


 画面の向こうの、彼のつくる世界。そこに名実共に存在することになったことを、もう受け入れたのだ。


 だとしたら、誠心誠意を尽くすしかない。


 紬と食べる柔らかなパンケーキは、夢のような味がした。

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