推しの隣を歩くこと

 どんなに悩んで頭の中を騒がしくしていても、時間というのは無情に経過する。


 出社と帰宅、そして配信を聴いて眠る内に、週末が来てしまった。


 あのとき放置してしまった美緒はけたけた笑いながら「それでも配信は観てるんだ!?」と可笑しそうにしていた。ごもっともである。躊躇はするのに、どうしたってスマホに来た通知を見なかったことにはできなくて、ルーティーンから抜け出せなかった。自分自身に呆れて来すらする。


 尚、暑い中待たせてしまったことに関しては、「面白いものが見れたからいいよー」とさっぱりした様子だった。気の良い友人で助かった。ただ、お詫びに帰りにジュースをご馳走しようとした際、今後の展開を聞かせてくれたらと断られてしまったのだけれど。いや、展開もなにも……。


 そう思いながらもこうして約束の駅に赴いてしまっているのだ。交換したメッセージアプリに表示される『石黒紬』の名前に溜め息を吐く。紛れもない、ゆずりはの本名がここにあることに動悸がする。


『スパチャありがとうございます! 撮り下ろしについてですか? まだ秘密なんですよー』


 この1週間の間の配信で、彼が絵師について触れたのはそのひと言だけだった。ここで圧をかけるつもりはないのだろう。コメント欄は「気になる!」「楽しみー!」といった内容が流れていったが、本人は詳しく話さないままさらっと朗読に入ってしまったので執拗な追及もなかった。


 相変わらず、物語の読み上げが心地いい。やはり、これを止めるなんて無理だった。すっかり生活の一部になってしまっているそれを切り離せないまま、スマホを枕元に置いて横たわる。投げ銭は一回だけした。「安眠代です」の一文だけ添えると、『ありがとうございます、ゆっくり寝てくださいね』とシンプルで優しい言葉が返ってきた。それだけでも前までとは違う意味で悶え苦しむことになり、ベッドの中でのたうち回ってしまった。


 オンライン上で短いやり取りをして、自身の端末にはお出掛けの打ち合わせのメッセージが届くなんて。世の中バグってる。


 誰かと出掛ける以上は身だしなみを整えるし、そりゃ髪型にだって気を使うけれど。腕に巻いた細身の腕時計を見下ろして、デートじゃないんだからと変に自分を責めるような気持ちになる。推しと出掛けられることに、動揺と緊張が隠せない。


「いいのに、ブラウスなんか……」

「まだ言ってる」

「っはぁ!! ゆっ……つっ紬くん、おはよう」


 はよーっす、とにっかり笑うのが眩しくて、思わず目を覆いそうになる。ラフなTシャツに黒いチノパン。赤い髪は帽子で半分隠れていて、両側が猫耳のようになっているのが可愛らしい。


「わー、先輩オシャレっすね! ファッション誌作ってるんですもんね」

「あ、ありがとう。私は文芸情報の担当だけどね」

「知ってる知ってる、でも周りがセンス良いと引っ張られません?」

「周りは良いねぇ」


 同僚たちを褒められると嬉しい。自然と笑顔になることができて、少しだけ気が緩む。


 それに、紬はふっと笑ったようだった。


「んじゃ早速行きますか。先輩、朝メシ食いました?」

「一応ね。紬くんは?」

「オレ朝は食わないんで」


 夜中まで配信しているからだろうか、と玲奈は推測する。


 夜更かしをした後の朝ごはんがあまりお腹に入らないというのはあるかもしれない。それか、起きていた分の寝坊をしてしまうだとか。玲奈は朗読の心地よさにひと足先に寝落ちがちなので、全部最後までやりきっているのだと思うと感心してしまう。


 これまでほとんど交流がなかったはずなのに、紬は話を途切れさせなかった。日常的に雑談をまじえた配信をしていることもあって、喋るのは得意分野なのかもしれない。ここにリスナーが自分1人しかいないことは、素直に喜ぶべきことなのだろうか。じわじわと自覚して、呼吸が浅くなる。


「先輩ってふわっとした素材のものも似合うと思うんですよね。こだわりとかあります?」

「推しに選んで貰った服とか、勿体なくて着れない気がするぅ……」

「ええー? つうか、オレのこと推しって呼ぶのなんとかなりませんか? もうリアルの知り合いじゃないっすか」

「あちらの名前の方が馴染み深いから……でも外でああ呼ぶわけにはいかないというか」

「紬で統一してください」

「涼しい素材がいいかな……」

「ちょっとー逃げたでしょ今ー」


 両手にハンガーを持ったまま、紬がジト目でこちらを見てくる。コミュニケーション能力が高いのは結構だが、もうちょっと準備運動というか助走が欲しい。


「もしかして、再会前は私たち結構仲良かったりした?」

「いやぁ、オレがそんなに印象に残らない存在だっただけっすよ」

「え、ええ、ごめんなさい……!」

「あっちがうちがう! 嫌みじゃなくて、立場的にっていうだけだから! まともに話したのは1日だけっすよ!?」


 それってどういう立場だ?


 よく考えようとするも、その前に紬が手にしている服をこちらに翳すようにして当て始めた。


「こっち、いや、こっちか……?」

「どっちも素敵だね。うーんと、こっちの方がお手頃でちょうどいいかな」

「思うんすけど、2着あったっていいですよね。夏だし」


 着てみて貰えます? と2枚ともを押し付けられて、断る間もなく店員を呼ばれてしまう。あれよあれよと試着室に連れていかれて、あわあわとしたまま靴を脱ぐ流れになってしまった。


 どうにも相手のペースに飲まれやすい。これは反省案件だ、と玲奈は胸元のボタンに指をかけた。



◆◆◆



「可愛かったっすねー! 先輩、自分とこのモデルさんとかやらないんですか? こんな人が本を選んでます、って綺麗な写真撮って貰うのアリだと思うんですよね」

「褒め殺される」


 きゅっとショッパーを抱きしめながら恐縮していると、紬はからからと笑って「今度編集長に打診しましょ!」なんて気軽に言ってくれた。アイディアに前向きすぎていっそのこと眩しい。


「確かに選出者のバストアップが載ってることはあるけど」

「ほらぁ!」

「雑誌によるんだけど、本の評論家さんに依頼して選んで貰ったりコメント書いて貰うことも多いから、そういう人の宣材写真とかね」

「先輩みたいな人って珍しいんですか?」

「どうだろう? うち色々特殊だし……。あ、企画によっては評論家さんや作家さんへのインタビューややり取りをすることもあるよ。私は趣味をそのまま仕事にできてるから楽しいけどね」


 そもそも読書量を買われての採用だった。最初のきっかけはインフルエンザになって寝飽きたときに父が買ってきてくれた魔法使いの児童書で、治ってからもそのシリーズを1冊ずつねだったのだ。友達と外で遊ぶのも好きではあったが、それから1人の時間は積極的に読書に費やすようになった。


 東京へ進学を決めたのは、図書館が充実しているからだった。それから、サイン本を扱っている書店が多いことも理由の一端である。お気にいりの作家が多くいるので、地方からその度赴くのはなかなか骨の折れる話だった。


「紬くんは、もともと読書は苦手だったんだっけ」

「今は大好きですよ。って、知ってるか」

「あの、その話、よかったら聞かせて貰っても……?」


 配信で詳しく触れていないことだ。尋ねていいのか迷いながら、恐る恐る訊いてみる。


「もちろん! 先輩は行ったことあるかもしれないんですけど、本屋とカフェが合体してるお店があって。よかったら、これからそこに行きませんか?」


 玲奈の質問に屈託なく笑って、「ねっ」とスマホを見せてくれた。あまりにスマートな流れだったので、依頼のことを思い浮かべる隙がなかった。


 玲奈は、あっと声を上げる。


「ここ、行きたかったんだよ……!! 紬くんありがとう!!」

「ほんとに? よかったぁ~! んじゃ行きましょ!」


 柔らかな強さで、すっと手を取られる。熱い手のひらに口の中で叫んだ。触られたのが嫌だったわけではない。彼の自然にやってのける行動に、それが自分に対して為されている実感に、まだ心が追い付かない。

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