譲ってくれないゆずりはくん
オープンキャンパスは無事終了した。バイト代を受け取って、希望者は千波先生と食事に行く。帰宅することを決めて荷物をまとめる玲奈に、美緒が「お疲れ!」と肩を叩く。
「ね、お昼の客って誰だった、の……」
彼女のぎょっとしたような表情に、反対に玲奈はきょとりとした。
「ちょっとどうしたの……なんかあった? トラブル?」
この短時間で憔悴してしまったのが顔に出ていたらしい。あるいは美緒が聡いのか。取り繕う元気もなく、重い溜め息が出る。
「推しを怒鳴ってしまいまして……」
「推し?」
「……推し……」
一拍おいて、……それってまさか、ゆずりは!? と叫びそうになった美緒の口を慌てて塞ぐ。身バレは配信者の大敵だ。手のひらの下で、ごめん、ともごもご言って、今度は声を潜めてくれる。
「え……? ゆずりはがレナに会いに来てくれたってこと?」
改めて言われると我が事ながら信じがたい事態だ。こくりと頷いて、へろへろとしながらバッグを肩にかける。
「なんで?」
「Vデビューの絵を描いてほしいんだって」
「わ! すごいじゃん、おめでとう!!」
「でも断っちゃった……」
「はぁ!?」
信じらんない、と驚愕する友人を外へと促して、校門へと向かう。
道すがら、事の顛末を聞いた美緒は変な顔をしていた。不可解な謎に当たったように、片眉をつり上げながら首を捻る。
「私の知ってるレナはもっと聞き上手だった気がする」
「だって許せなかったんだよ……」
「ゆずりはを?」
「私が推しの活動に、手を入れる傲慢さを」
薄く茶色に染まってしまった裾を、無理やりスカートの中に押し込んで歩く。もう崩れかけたメイクすら気にする余裕もない。
それより、推しをしょげさせた上に拒否した事実が胸をぎゅうっと絞り上げてきて敵わない。昼食を食べそびれて空腹なのも相まって、ネガティブが加速していく。
「どうしよう、傷付けてしまった気がする……心が痛い……あれはゆずりはくんにぶつけたかった言葉じゃないんだ、私が私自身を殴りたくなったというか、それでつい……」
「あんたって感情が動きに出やすいからねぇ」
どう思われたか、も気にならないと言えば嘘になるけれど、それ以上に刺された彼が悲しい気持ちになっていないかを考えると胸が締め付けられる。
いきなりとはいえ、あちらは依頼という形を取ってくれたのだ。食い下がられたけれど、無理強いをされたわけじゃない。なのに……。
「まあ、突然でっかいこと頼まれたらびっくりもするでしょ。あんた根っからのファンなんだし。第一面識があることすら記憶の彼方なのに、それですんなりオッケーの運びになるわけなくない? 自然な展開だって、別に」
ズバズバと言葉で煩悶としている部分を切りながら、美緒は玲奈を庇ってくれる。ありがたいけれど、後悔はなかなか消えてくれない。あの真剣な眼差しが、驚いた顔が、頭から離れない。
けれどもう、どうしたらいいか……。
「レナせんぱーい……!!」
遠くから声がする。玲奈にとって聞き慣れた声だが、呼ばれることにはなかなか馴染みがない。心臓が跳ねて、足がもつれた。美緒が支えてくれて、なんとか振り返る。
声の主は思った通りの人だった。
汗の滲んだ肌と服が擦れる。玲奈は、気が付けば駆け寄っていた。相手はそれが意外だったようで、目を瞪りながら靴音を止ませる。
「せんぱ、」
「ごめん、紬くん!」
心臓がバクバクする。吐きそうな心臓を宥めて、胸を押さえたまま頭を下げた。
「……どうしてもダメですか」
くしゃ、と辛そうに眉が下がる。大好きな声が、失意に沈む。
ああ、推しになんて顔をさせているんだろうか!
そうじゃない、と玲奈は慌てて首を振った。
「カフェで大きな声を出しちゃったこと。あれは、……紬くんの言うことの否定をしたかったんじゃない。私が、ただのいちファンが紬くんの活動の大事なところに関わるなんて、……我を出してしまうかもしれないなんて、そんなことしていいはずがないって」
弁えている、とも違う。神聖視に近いかもしれない。推しの世界に足を踏み入れて存在してしまうことは、他の人はどうあれ、自分がやっていいことだと思えないまま応援してきた。
まさか恩師の孫で、後輩だとは思っていなかったから、縁が出来てしまったことはもう変えようがないのだけれど。本当は、彼の視界に入ってしまうことを避けられないという事実を、いまだに受け入れられない。
ただ、そういう心の中での葛藤があったとして、感情のまま声を荒げていいわけではないのだ。
「ゆ……紬くんが傷付いたら、私だって悲しいし、悪いことをしたと思う。だから、謝りたくって」
紬は、しばらく目を瞬かせていたが、ややあって視線を逸らしながら頭を掻いた。
「オレが無理なお願いしたからなのに。先輩、律儀っすね」
「もうあらゆる意味で自分が情けない……こっちはいい大人だっていうのに」
「依頼については、全然諦め付かないです。譲れません。でも追い掛けてきたのは、弁償をさせてほしいからで」
弁償? と首を傾げると、彼の視線が腰の方へ寄せられる。
「仕舞ってるけど、ブラウス汚れちゃいましたよね。新しいの、買わせてください」
「い、いいよ! こんなの、洗えば大体は落ちるよ!」
「いや、染みは舐めない方がいいっすよ」
「そもそもグラス倒したの私だし……っ!」
「お気に入りの服屋ってあります? 次の休みが空いてたら是非」
お、押しが強い……!
ゆずりはくんってこんなに強情な人だったっけなぁ、と脳内で推し情報を更新していると、彼は一歩こちらへ踏み出てきた。気圧されるように一歩引くも、更に距離を詰められる。
「ついでになんか食いに行きましょうよ」
「……そこでも、依頼の話をするつもり、なのかな……?」
「まあ、先輩が覚えていないオレとのエピソードについては話しておきたいですよ。それにほら、諦めてないんですって」
にこりと八重歯を見せて目線を合わせ、とびっきりの甘い声で囁く。
正直心臓がわし掴まれてしまうので、その声色はずるい。こちらは、それに惹かれて日々推し活をしているので!
目をぐるぐるとさせ出した玲奈を数秒見つめて、紬は今度は身を離した。
「先輩はオレの恩人です。だから、オレの姿はあなたから貰いたい」
彼の紡ぐ音が、鼓膜に大きく響く。蝉の声が遠のく。
大きな風が吹いて、下げた頭のつむじが見えるのにようやく我に返った。
恩人とは何のことだろう。
何も答えが出ていないのに、紬は顔を上げてくれない。
根比べをするには適さない季節だった。
だから結局、玲奈は新しいブラウスを買って貰うことになってしまったのだった。
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