任意の赤が許せない
「……大丈夫ですか? レナ先輩」
甘やかな低音が、耳を優しくくすぐる。
あれからどうにか座り直して、紬も向かいに戻ってくれた。よかった。あのまま隣にいられたら心臓が逃げ出してどっかに行く。
いや、いっそそのまま逃がしてしまって、他のところに隠れていてもらった方がいいのでは、なんて突飛なことにまで考えが及びだした。現実から離れたところで意識がふわふわする。
それでも、彼が涼しいはずのカフェでだくだくと汗をかきだした玲奈を心配そうに見つめているので、小さく頭を振ってなんとか正気を呼び戻す。推しに名前を呼ばれる破壊力に悶えつつも、だが。ほんの1メートル内に本人がいることになんとか順応しなくては。
「そっ……そっ……その節は……お世話になっております……っ」
声がひっくり返る。紬はあわあわとぱたぱた両手を振った。
「も、もー、急にたかのりさんって呼んだの悪かったですって……! その、これで気付いて貰えたらエモいなーなんて考えちゃってすんません! 軽率でした」
「ファンサなのか……息の根を止めに来たのか……わからないんですよ……もう……」
「息も絶え絶えじゃないっすか……。敬語やめてくださいよ、先輩は先輩なんですから……」
「だって推しの先輩であることなんてある!!??」
小声で喚いて、指を組む。がっちり力をこめて握りしめながら、どうにか前を向いた。
「うん、それでええと、なんだっけ……ママになってほしいとかなんとか」
「はい!! オレ、ずっと先輩のファンで、この前アップしてた和装ドレスのイラストなんかもすげぇ気に入ってるんすよ。すごく細かく描かれてて最高です!」
「……待って待って待って、SNS見てんの!!? どこから漏れた!!? 千波先生は知らないはず……!」
「オレのアカウントをフォローしてくれてるから……」
爆速で脳内の過去の投稿を手繰る。何かまずいことは書いていなかっただろうか。割と赤裸々な推し活についてだったり、素直に萌えを叫んだりもしていたけれど。
推しに認知されていることがこんなにも心臓に悪いと思わなかった。うん、やっぱり旅に出て貰おう。
「……っすぅー……」
「……すみません……ストーカーみたいでしたかね、オレ……」
瞑想の如く目を閉じて呼吸を整えていると、紬が俯いた気配がした。あわてて視線を戻せば、目の前で彼はしょげたように眉を下げていた。
「そっそんなにしょんぼりしないで……! ていうか推しに謝らせっぱなしなの、よくないな。ほんとによくない。――うん! よし、ちゃんとお話聞く!」
指を解いて、ぱちっと両頬を叩く。気持ちを一旦リセットしなければ。
「ゆずりはくんのお姿のデザインを頼みたいってことだよね。すごくびっくりしたし、……まだしてる、し。はっきり言って恐れ多すぎて、まともにペンを持てる気がしないよ」
普段から絵を描くことを趣味にしていても、いきなり推しの姿を創り出せと言われたらたじろいでしまう。だって、他ならぬ推しなのだ。玲奈が自由に考えたキャラクターを、たまたま気に入ってくれた人が見てくれるのとはわけが違う。
求められているのは、全ての原動力と癒しになっていると言っても過言ではない推しの受肉なのである。生半可な覚悟でやっていいものじゃない、と玲奈は思う。
「恐れ多いなんて……いやわかります、Vのビジュアルの大切さは。慎重になるべきことなのも。でも、レナ先輩なら良い絵を描いてくれるって、オレはちゃんと考えたつもりです」
「うーん、でもこれは真面目な話、プロに頼むのが定石なんじゃ……近場の人じゃなくて、しっかりお金かけてイラストレーターさんにデザインして貰った方がいいんじゃないかな。ファンからすると、本人もリスナーも唸るような魅力的な姿であってほしいの、推しには。推しの躍進なんだから」
「これだってれっきとした依頼です! 先輩はいつもオレの配信見てくれてるじゃないですか。解像度高いと思うんです。きっとオレにぴったりの顔や衣装を描いてくれる。それにSNSの絵を見る度に、ああやっぱりこの人しかいないって」
「ひ……そこまで認知されてるの、ほんと動揺のあまり体がバラバラになりそうだなぁ……」
へらへらと笑いながらも、アカウントに鍵を掛けようか……と過ったところで、コトン、とグラスを置き直す音がした。
「レナ先輩」
紬が、真剣な目をして身を乗り出した。思わず、息を詰める。
「オレはあなたの解釈でオレの姿を生み出してほしいんです。いつか、このお願いをしようって、本気で、ずっと思ってて。……レナ先輩だからこそ」
必死な声は甘くもあり、芯の太さも感じた。
ああ、“解釈”の“か”の発音がいい。こんなときにも耳は喜んでしまう。心がぐらりと揺れた気がした。
けれど、瞳にかかった赤い前髪がさらりとしたことで、ハッと息を飲んだ。
炎のような赤か、ダークチェリーのような赤か。
その色味の想像を膨らませていた朝が急にぐんと迫ってくる。
ペンを取ったら、パレットから意のままに選べてしまう。
理想の、任意の、赤色を。
「――推しに趣味を盛り込みまくるなんて、やっていいはずがないでしょ……っ!!」
思わず腰が浮く。何かを言おうとしていた紬が、驚いて口を丸く開ける。
そこで、見計らったようにスマホのアラームが鳴った。
模擬授業が終わる10分前だ。大学の手伝いはまだまだ残っていて、玲奈には役目があった。
タイムリミットがあってよかったと思う。
この場から逃げる言い訳を、ベルの音が作ってくれる。
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