絶対!!譲れないゆずりはくん

たいご

推しVに先輩と呼ばれた日

「先輩は俺の恩人です。だから、俺の姿はあなたから貰いたい」


 ブラウンみのある赤い前髪の下で、切実な目がこちらを見つめてくる。暑さをなぎ払うような風が吹いて、高森玲奈は石黒紬の下げた頭にようやく我に返った。久しぶりに訪れた大学の校門に、蝉の声が戻ってくる。



◆◆◆



 都心から少し離れた、日当たりのいいマンションの一室。玲奈は鍋を火にかけながら、配信までの時間を確認した。


 社会人生活はもう5年目になる。新宿のファッション誌を中心に刊行する会社に所属して、主に担当するのは映画や漫画、小説などメディアや書籍を中心に紹介するページだ。残業もほどほどにこなしつつ、後輩の育成に勤しむ毎日。


「レナ先輩、今日もご飯ダメなんですかぁ~!?」

「ごめんね、ランチだったら一緒できるから」


 疲れた体には、推しの配信がきく。


 可愛い後輩のお誘いはありがたいけれど、ビタミン剤を数日欠かしたら肌が荒れてしまうように、心の栄養だって補給を怠ったら大きくメンタルに響くのだ。社会人として、参加するべき飲み会には行くけれど。行けばそれなりに楽しかったとしても、やはり涙を飲みながらにはなってしまう。


「ああいうとき、アーカイブがあるのは助かるなぁ……」


 それにお世話になることは勿論ある。大人は往々にして時間の自由がきかない。少なくとも、締め切り前の編集部は舐めてかかっていいものではない。周囲が会社に泊まるほど急を要しているときに、リアルタイムでの参加なんて到底無理な話なのだ。


 救いは、自分の推しは比較的深夜に配信をやってくれることだ。それならば、落ち着いている時期であれば帰宅して食事をしてからでも間に合う。なんなら、きちんと身を清めてからだって。


 家では自分が満足する程度の自炊をすることにしているので、今晩は雑炊にした。卵ときのこと、ネギをたっぷり、出汁で煮る。仕上げにぱらぱらとゴマをひねりかけたものをコンロから下ろして、スマホで待機画面を開いた。美味しいものを食べて迎える配信は最高だ。


 ふんふんと鼻歌を歌って、レンゲで掬っては口に運ぶ。あとで紅茶を淹れて、プリンでも出しちゃうか。


 開始時刻に向けてコメント欄が賑わい出し、やがて待機画面が切り替わる。食べ終えた皿は流しに置いたし、デザートも持ってきた。万全だ。推しを摂取するときは、こうでなくては。


『こんにちは、文織ゆずりはと申します』


 びわ、と鼓膜どころか耳殻から震える感覚があった。この胸まで響くような声がたまらない。すっかり中毒になって、もう結構な時間が経つ。


『いや〜今日も暑かったですね! 飯の用意が大変で……あ、今日は青椒肉絲食いました! うまかったぁー』


 文織ゆずりはは、主に物語の朗読を中心にした男性の配信者だ。若者らしい甘めの低音が耳に心地よく、寝る前にお世話になっているというリスナーも多い。


 実際、玲奈もきっかけはそれだった。無音で眠るのが苦手だから、と就寝のお供を探していたときに出会って、何度か配信に訪れる内にすっかり虜になってしまっていた。物語を丁寧に読み上げてくれるのが、一緒に本の中を泳ぐようで安らぐ。


 それに発音が綺麗で、特にカ行の掠れ具合とハ行の柔らかさが堪らない。フェチと言われてもいい。欲を言えば、ASMRとか聴いてみたい。そんなことは絶対に言わないけれど。


「今日の安眠代です……お納めください……」


 ゆずりはは朗読中は投げ銭に反応しないけれど、最初と終わってからの雑談パートではコメントをさかのぼって読み上げてくれる。そのときの愛嬌のある反応が好ましくて、またそれ以上に推しの応援ができることが嬉しくて、ついつい財布の紐が緩くなる。日々働いている者の特権だ。推しは推せるときに推せ。個人での活動なら尚更推せ。


『たかのりさん、スパチャありがとうございます! わー、オレ安眠守れちゃってるかなー? あは、ほんといつも感謝してます。ガチで!』


 失礼じゃない程度の、くだけたノリに素直に親しみが湧く。クラスにいたらムードメーカーになっていそうなイメージだ。そして、これと物語を読むときのしっとり感のギャップがいいんだよな、と頬が緩む。


 因みに、玲奈の苗字が高森だから、もじって、たかのりと名乗っている。高校時代からずっと使い続けているHNだ。異性の名前を用いるのはネット上ではそう珍しくもなく、商業作家がペンネームに使うことだってしばしばある。本当の自分が誰であれ、どんな性別であれ、深く突っ込まれることのない世界。


『ええと、今日はですね。配信前に、ちょっと話があるって告知してたと思うんですけど』


 玲奈は、SNSでの彼の発言を思い返す。決心したことがある、という文言に、良い知らせと悪い知らせのどっちだろうか、と退勤中ふと不安になったりもした。ヒールの痛さも忘れて、電車の中でタイムラインをひたすら更新する。結局それ以降の投稿はなくて、そりゃそうだと自分に呆れた。


 話がある、の内容を事前に事細かに教えてくれるはずがない。配信者の発表とはそういうものだ。今もどきどきとする心臓を宥めるように、プリンを飲み込んだ後のスプーンを前歯でゆるく噛む。


『実はですね……VTuberデビュー、というものに興味がありまして』

「っそうなの!?」


 握力が変なことになって、手の中のスプーンが滑り落ちる。カーペットに落ちたそれを、拾うより画面に釘付けになってしまった。


 ちょっと待って。


 玲奈は口元を押さえる。


 VTuberになるということは。今まで声しかなかった動画に、公式的に定められた容姿が追加される。モデルを通して本人の動きを見られるということは、推しの解像度が劇的に上がるということで。姿付きで語るのが聴けるわけで!


『新しいリスナーさんにもこういうところから入りやすくなってほしいな、って思ったり。あとはまあ、憧れなんですけど』

「推しが……ゆずりはくんにお姿が……!? えっ今すぐ見たい……!! 最、高……!!」


『いやこういうのって、水面下で進めてドカーンと発表するもんなのかなぁ? 色んな人がいるみたいではあるけどね。一応さ、動きのサポートはサークル仲間がやってくれることになってて。撮り下ろしてくれるのは……頼みたい人がもういるから、近々お願いしに行くつもり。っあー緊張するわー!』

「やったぁー!! 優勝したー!!!」


 コメント欄の流れが加速する。思ったより話が進んでる!

 これは、実現が近い予感がする……!


 握りこぶしを作ってもわくわくがおさまらなくて、そのままボスボスとクッションに沈める。だめだ、叫びながら猛ダッシュを決めたいくらい嬉しい。悪い発表だなんてとんでもない、退勤中の自分の両手を握り「期待してていいからね!」とネタバレをかましたい気分だ。


 どんなお姿になるんだろう、と弾むような気持ちで画面を見る。誰が担当してくれるんだろう。自分も知っているようなイラストレーターさんだったりするんだろうか。どちらにしても、ゆずりは自身が見初めたデザイナーであるならそれも含めて次の発表が待ち遠しくなる。


 二重に楽しみになりながら、今度はクッションをきつく抱き締めた。依頼がうまくいくといいと切実に思う。どうかこのプロジェクトを、現実のものに。


『オレさぁ、……ほんとは本を読むのってすごく苦手だったんだよ。きっと食わず嫌いもあったんだけど、登場人物を頭ン中でうまく思い描けなくて、長い文章が印刷されてるだけで、うへぇ~オレには無理……ってなっちまって。そんなとき、どういう切り口から本を読んだっていいんだって教えてもらってさ。だから、オレもここで読書の間口を広げてやりたい。同じような人たちの、物語に触れるきっかけになれたら嬉しいなって思うよ』


 その瞬間、暴れていた体中から、力が抜ける。そっか、と口の中で呟いた。


 ゆずりはくんも物語を届けたいんだね。


 視線はハンガーにかけたスーツへと吸い寄せられる。その思いを、願いを、尊いと思う。


『……え? 容姿のヒント? うーんそうだなぁ、……オレもともと髪赤いから、赤髪で頼みたいね!』


 髪赤いのぉ!? と叫んで卒倒した。倒れこんだベッドの上でクッションが跳ねて落ちる。



◆◆◆



「どんな赤さなんだろう……」

「レナさぁ、今朝からずっとそれ言ってるよね」


 太陽が照りつける中、隣を歩くのは大学時代からの友人、真鍋美緒だ。お互い汗をハンカチで押さえながら道を行く。休日である今日は、母校のオープンキャンパスの手伝いに当てられている。共に文学散歩という課外サークルで活動していたことで、卒業後もたまにこうして駆り出されるのだ。


「千波先生、お元気かなぁ」

「また孫自慢が始まるに1票」

「ねー、成長記録できちゃうね」

「まあ可愛い存在だっていうのはわかるけどさ」


 美緒が笑み混じりに肩を竦める。千波先生は、柔らかな雰囲気の良いおじいちゃん先生だ。文学の話題に限らず悩み相談にもよく乗ってくれて、学業から私生活まで助けられた生徒も多い。自分たちもそんな生徒の一員なので、力になれるところは協力を惜しまないつもりでいる。


 卒業生の経験談は、受験生にとって重要な情報になる。パンフレットやホームページからだけではわからない生身の話を聞きたがるのは、かつて高校生だった玲奈にも頷ける。


 出願先としてどういう点が魅力的か、いざ入学が叶ったとしてその先の4年間をどう過ごすといいか、楽しかった授業やサークルの話など……語りだしたらキリがない。


「レナは話聞くのうまいからなぁ。千波先生の影響かな?」

「そうかな? 自信はないけど、頭が上がんないね」


 大学の周囲から構内にかけて、季節の木々が植えられている。じーわ、じーわ、と蝉が鳴く。今日の気温は33度。歩いているだけで汗が吹き出てくるので、メイクが崩れるのも時間の問題である気がする。


 オープンキャンパスは基本的に夏から秋にかけてなので、暑い気候になるのは仕方ないのだけれど。構内に入ったら、一旦化粧室に行こう。


「そういえば、今年も在校生が何人か手伝ってくれるっぽいよ。資料運びとか。なんか、髪が赤くて面白い子がいるんだって。よかったじゃん、参考にしたら?」


 赤い髪、の言葉にふよんと顔が緩む。うだるような暑さが、一瞬飛ぶ。


 今現在、玲奈の中ではトレンドワード第1位だ。



◆◆◆



「ここまでで、気になることはある?」

「ええと……さっき説明していただいた通いやすさについてなんですけど」


 本日の参加は高校1年生から受け付けている。彼らにはまだまだ時間があるように見えて、高校によって文理の選択の時期が違うから、ある程度先を見定めておくのは今後において有効だ。


 勉強する方向性から学生街の暮らしやすさまで、様々な質問が飛んでくる。講師たちに比べれば歳が近い若者であることも、おそらく何かを訊くハードルを下げてくれている。そして20代後半になった玲奈だからこそ答えられる内容のものだってあるのだ。


「就職してその後どうだとか、大学で取った資格や勉強がどう活きたか、などのリアルな感想は卒業生じゃないとわからないものですからね」

「千波先生」


 すらりとした背格好と、人好きのする優しい笑顔。白髪は品が良く整えられており、皺の寄った手でボールペンを胸ポケットに仕舞う仕草も紳士的だ。今日も生徒や卒業生たちが度々嬉しそうに話しかけていて、改めて好かれる先生なのだと再認識した。


「お二人ともお疲れさまです。もう午前の部は済みましたね」

「はい。午後は模擬授業でしたよね」

「はー、ひと息つけるね。レナ、久しぶりに学食で食べる?」

「いいねえ」


 大学内にはいくつかの食事処がある。カフェスペースもあれば、2階建ての大食堂で幅広いメニューを提供しているところもあるのだ。久しぶりにここのオムライスが食べたいな、なんて思っていると、千波先生がゆるく手を上げた。


「真鍋さん、申し訳ないのですが、高森さんにお客さんが来てまして」

「えっ?」

「そうなんですか? うーん、じゃあ私は部室棟の方に顔出してくるか……レナ、後でまた!」

「あっ」


 何事も即決で行動の早い美緒は、あっという間に荷物をまとめると、先生にお辞儀をして出ていってしまった。周りも決められた休み時間のためにどんどんと撤収をしていって、自然と教室には先生と二人きりになる。


「お客、とは……?」

「構内のカフェに、奥まった席があるでしょう。そこで待っているように伝えました」

「はあ。私の知っている人ですか?」


 その問いに先生は柔和に笑ってみせてから、「行ってください」と時計を示した。



◆◆◆



 カフェは幸いにも、相談スペースを設けていた1号館から近いところにある。昼時となると日差しが益々厳しくなるので、足ばやに施設内に駆け込んだ。冷房が利いていることに、ふうと息を吐くと店内を見回す。


 奥まった席といえば、あそこしかない。玲奈が在学中、好んで座っていた席だ。あまり人目に付かず、趣味の落書きができたところ。あの頃は授業の空きコマがあると、美緒の前でタブレットを出してはペンを走らせたものだ。


「あっ」


 席のすぐ傍まで来ると、ようやく座っている人の顔が目に入る。氷の溶けたグラスの中身を、ぐるぐると掻き回し続けている青年。私服だし高校生ほど幼くは見えないから、おそらく大学生だろう。整った顔つきで、唇をきゅっと引き結んでいる。――それより。


「赤い、髪」


 するりと口から滑り出た言葉に、慌てて口を覆った。こちらに気付いた青年が、弾かれたようにこちらを見て立ち上がる。


 お互いがお互いを視界に入れたのに、数秒の沈黙があった。いい大人としてきちんと挨拶をするべきなのはわかっていても、どうにも綺麗な髪色に目を奪われっぱなしになってしまう。鮮やかすぎず、綺麗にその身に馴染んでいる色あいに感心する。少しブラウンがかっていると、さほど違和感がないものだな、なんて思ってしまう。奇抜であるはずのものだって、丁寧に調整したら割と馴染むものなのかもしれない。


「……レナ先輩、ですよね」


 びわ、と耳の奥が痺れる。脳が小さく揺らされた気がして、咄嗟に耳殻を押さえた。なんだ、この感覚。


「あ、は、はい!」

「お久しぶりです。石黒といいます。覚えてないかもしれないんですけど……オレ、昔レナ先輩に会ったことあるんですよ」

「…………」


 そうなんだ?


 人の名前を覚えるのはそこまで苦手ではないはずなのだが、記憶にない。こんな髪色の相手に会ったら忘れないと思うけれど。いや、いつ染めたのかなんてわからないからな……。


「うーん、ごめんね。サークルの後輩かな? 文学部?」

 申し訳なく思いながら、ひとまず正面の席に腰を下ろした。すると反対に彼が立ち上がって、出ていこうとしてしまう。

「ん!?」

「どっちもっす。アイスコーヒーとアイスティー、あとジュースありますよ」

「い、いいよ、後輩にそんな」

「アイスティー好きでしたっけ」


 そんなことまで把握されているとなると、思い出せないのが更に申し訳ない。


 確かに、玲奈は紅茶が好きだ。

 あれこれお茶を飲むサークルなんてものが学内に存在していて、かつてはそこに在籍していた友人の元にお邪魔してはご馳走になっていたくらいだ。


 茶葉にこだわる部員もいたが、ペットボトルやパックのお茶なんかも多く飲み比べていたので全然敷居は高くなかった。あのサークルってまだあるんだろうか。入り浸っていたのを知られるのは恥ずかしいのだけれど、もしかしたらそこから伝え聞いただとか。


「はい、どうぞ!」

「ありがとう……ごめんねわざわざ」

「オレもおかわり欲しかったんで」


 ほとんど水になったグラスを寄せて、新しいグラスが並ぶ。キンと冷えているらしいそれに、こくりと喉が鳴った。


 一度は遠慮したものの、午前中喋り通しだった上に、外に出ると暑いので冷たいお茶が沁みる。ごく、ごく、と喉を通る感覚に、生き返る思いがする。救われた。心遣いがありがたい。


「ちゃんと自己紹介しますね。文学部2回生の石黒紬っていいます。文学散歩にも所属してるんで、レナ先輩の話をよく聞くことがあって……なんで、親しいわけでもないのに呼び方うつっちゃってすんません」


 玲奈は、改めて紬を見た。笑うと見える八重歯、大きな目。スポーツでもやっていそうな背格好に、ブラウン寄りの赤い髪をワックスで整えている。いまだに色彩の情報が気になってしまうが、それより相手をきちんと把握する方が先決だ。


「私の話なんか聞く機会あるんだ? もう卒業して5年目だし……OGとしてもあんまり顔出してないと思うけど」

「千波先生があれ、オレのじいちゃんなんすよ」

「えっ!? お孫さん!?」

「二人兄弟の次男です。それによくサークルに遊びに来てくれる卒業生はレナ先輩のこと知ってますから。じいちゃんとたまに話題にしてんのを聞いてたっていうのもありますね」


 それじゃあ、毎年会う度に自慢していたのってこの人のことだったんだ。驚きでまじまじと見てしまう。言われてみれば、面影が無くもない。


「千波先生、お孫さんのこと……特に弟さんのことを可愛い可愛いって言うから、その、紬くんみたいなタイプだとは思わなかったな」

「どういう意味っすか!?」

「だって小学生のときの紬くんの話も聞いてるからね。昔は線が細かったみたいだし、なんかこう、でっかくなった想像ができなくて……あと髪がそんなことになってるとは」

「あーこれ? 染めたの今年っすね」


 言って、紬が前髪を摘む。できればもっとその色を間近で堪能させてほしい。物理的にも間柄としても、そんな距離感じゃないが。


「それで、私に何か用? 大事な話?」


 どうやら自分たちはしっかりと先輩後輩の関係にあるらしい。だったら尚のこと、親身に相談に乗ってやらねば。


 千波先生の身内なのだとわかって、心理的ハードルも大分下がったし。


 こちらが心持ち身を乗り出すと、彼はひとつ深呼吸をした。思えば、玲奈が席に着く前から彼は緊張していたようだった。いくらかのお喋りでそれなりに気が紛れたようだけれど、やはり言いにくいことなのかもしれない。


「実は先輩にお願いがあって」

「うん」

「オレのデザインをしてほしくって」

「……うん?」


 言われた意味を測りかねて、首を傾げる。


「紬くんの、デザイン……?」

「わかりやすく言うと、ママってやつなんですけど」

「わかんないけど……ママ……?」


 デザインとママという単語が結び付く例は多くない。現代のネット界隈で言えば、Vtuberのキャラクターデザインをする絵師をママ、なんて呼んだりするけれど。そんな画面の向こう側の世界のことが、自分の身に降りかかるわけもないし。だめだ、昨日の配信があったせいで意識がそちらに寄ってしまっている。


「先輩の絵じゃなきゃダメなんすよ」

「あ、絵、絵だよねやっぱ。……ん?」 

「“たかのりさん”」


 バシャッ。


 腕が当たって、グラスの中身が盛大に溢れる。慌てて布巾を取ってテーブルを拭う紬を、玲奈は動きの鈍くなった視線で追い掛けた。


「先輩、服に染みが……!」

「え? ……わ!?」


 立ち上がった紬が、すぐ傍に移動してブラウスの裾に布巾を押し当てている。


「熱いものじゃなくてよかった……すんません、驚かせちゃって」


 名前を呼ばれて、すぐ近くで喋られて、やっと理解が追い付く。


 毎晩耳に流し込んでいる癒しの声。

 物語の前後のくだけた口調。

 デザイン。ママ。Vtuberデビュー。


 信じがたいことに全部が繋がってしまう。意思とは関係なく、手がぶるぶると震え出す。


「……かっ……確認したいんですけど……」

「はい、え? 敬語?」

「…………あ、あ……文織ゆずりはくん、じゃ、ありませんよね…………?」


 声まで震えてきて、激しく脈打つ心臓に呼吸が苦しくなる。そろそろと彼を見ると、綻ぶような笑みがこちらを向いている。


「そう。毎日たかのりさんの安眠を守ってる、ゆずりはです」


 今度こそ卒倒した。此処には受け止めてくれるベッドなんかなくて、ふらついた肩を支えてくれたのはゆずりはだった。


 推しが目の前にいる。そこに体温があることが、質量があることが、どうしたって信じられない。

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