第7話 引退

退院して1週間後、私は中野ブロードウェイの2階にある『絵夢』に長官を呼び出した。

「私はしょうが焼き定食にコーヒーフロート、長官は?」

「焼きそばとビール」

あの日と変わらない店内としょうが焼き定食、コーヒーフロートは少し緊張気味の私をリラックスさせた。

私がここへ来るのは20年ぶりで、長官もそうだと言った。

私は20年前と同じ席で、退職の意向を申し出た。

最近の自分を不甲斐なく思っていること、すでに伸びしろを使い果たして能力にこれ以上の向上が見込めないこと。

何より、今の自分では東京を護れそうにないことなどを伝えた。

長官は「うん」とだけ頷いた。

どうやら、わかってくれたようだった。

「あまり変わらないね。長官、昔から老けて見えたから、歳を取ってもあまり変わらない」

「君も変わらないじゃないか。まだ、十分に美しい」

「綺麗なうちに辞めさせてくれてありがとう。退職金、ちゃんと払ってね」

まるで中年夫婦の別れ話みたいだった。

微笑した長官は優しそうな目で私を見ている。

私はその目を直視することができなかった。

見つめると、涙が出そうだったから。

「本当は、もっと早くに引退させてやりたかった。こんなになるまで、君を働かせるべきじゃなかった。でも、君の代わりがどうしても見つからなかった。すまないと思ってる。本当に申し訳ない」

まだ私が若かったころ、落ち込むたびに励ましてくれたのが長官だった。

基本的に臆病な私が、美少女戦士として20年も勤続できたのは、誰よりも彼のおかげだった。

「べつに謝らなくてもいいよ。私だって迷惑かけたんだから」

「辞めてどうするつもりだ。人生、まだ長いだろう」

ふと、もしあのとき長官にスカウトされなかったら、今ごろどんな人生を歩んでいただろうと思った。

誰かと結婚をして、幸せな家庭を築いていたのだろうか。

この20年、美少女戦士として経験した苦悩や挫折は、私以外の誰かが引き受けてくれていたのだろうか。

私はコーヒーフロートをひとくち飲んで、長官にさよならの意訳を伝えた。

「引退したら、誰もいない部屋で椅子に座ってるだけの人生がいい。もう、何もやりたくないから」

その日の深夜2時、私は西新宿にある旧NSビルにマホリを呼び出した。

「いきなりどうしたんですか。こんな場所にコスチュームで来いだなんて」

すでに廃墟となって久しいNSビル。当時、世界最大の振り子時計だったユックリズムだけが時を刻んでいた。

「入院中はありがとね。毎日、お見舞いに来てくれて。シュークリームおいしかった」

「いえ、ぜんぜんいいですよ。先輩が元気になってくれてよかった。また、いっしょに戦えるんですよね?」

「マホリさ、なんか勘違いしてない? たしかに入院してる時にちょっと仲良くなったのかもしれないけど、だからといって私とマホリの関係が何か変わったわけじゃないよ。相変わらずマホリは生意気な後輩で、私はその後輩の人気に嫉妬してる、ただのおばさんなんだから」

私はマホリを突き放すように言った。

今日ここで、私は美少女戦士ではなくなるのだから、もうこれ以上2人が仲良くする必要はない。

マホリは表舞台で活躍する美少女戦士で、私はこの先、ひとりで生きてひとりで死んで行く、中年のおばさんなのだから。

だけどマホリは、そんな後ろ向きな私に初めて出会った日のような純粋さで応えてくれた。

「先輩との関係が変わってないのなら、わたしは今でも先輩のことが大好きです」

まるでポカリスエットのCMみたいだった。

17才の女子高生に大好きですなんて言われたことなんてなかったからドキドキした。

とっさに、自分が17才の時はどんなだっただろうと思ったけど、あまりに遠い記憶すぎて思い出せなかった。

私はマホリを突き放すことをやめた。

そうするには、もう2人は親密すぎたから。

だから私は、これまでの気持ちを素直に伝えることにした。

「私、20年ずっとひとりで戦ってきたから、いきなり後輩ができてどうしたらいいのかわからなかった。年齢とともに自分の実力が落ちてるのはわかっていたから、本当はマホリが必要だったのに、それでも私はどうしてもその現実を受け入れられなかった。異神に負けそうになるたびに悔しくて悔しくて、もっと強くなろうと努力しても、もう今の自分に伸びしろは残されていないことに気づくだけだった。この間、初めて負けた時に深夜の病室で自殺しようと思った。でも、その気持ちに耐えていると、朝が来てまた生きようと思えた。だってもう少しすれば、シュークリームを持ったマホリがお見舞いに来てくれると思ったから」

言い終わって、なんだか恥ずかしくなってしまった。

それは病院のベッドの上で泣いた時とは違う恥ずかしさだった。

こんな恥ずかしいことばかりを話す私を、マホリはどう思うのだろうか。

「先輩は、まだ誰にも負けてなんかいません。先輩とわたしは2人で1つじゃないですか。わたしが異神を倒したんだから、先輩は負けてないんです。わたしにとっての先輩は、これからも絶対無敵の美少女戦士ですから」

もしマホリがいなかったら、私は何回死んでいただろう。

女コウモリの時の人工呼吸と、自殺しようと思った時のシュークリーム。

少なくとも2回、私はマホリに命を救われている。

でも、もしまだ私が負けたことがないと言うのなら、その経験をマホリに伝えたい。

それが、私が先輩としてマホリにできる、最初で最後の恩返しだから。

「マホリ、私はこの歳になってもまだこんな格好で人前に出なきゃいけない自分を誇らしく思えないでいる。私はもう負けたいんだよ。だから、君の力を貸してほしい。そして、美少女戦士の呪縛から、私を解き放ってほしいんだ」

頷いたマホリは、髪をかき上げてゆっくりと眼鏡を外した。

裸眼で私を見つめるその顔は、とても精悍で大人びて見えた。

「わかりました。そのかわり、一切手加減はしません。泣いて謝っても、許しませんから」

私は異神と戦う時と同じように深呼吸をした。

これは、臆病な私の心を鎮めるささやかな儀式だった。

そして、いつものように精一杯強がってみせた。

「この20年、異神相手に無敗だった実力を見せてあげる。そっちこそ、無様な姿を晒しても悪く思わないでね」

1時間後、私は自動運転で走るテスラの後部座席にいた。

「これでいいよね。いつまでも、美少女戦士でなんかいられないんだから」

バックミラーに映る痣だらけの顔、コスチュームは所々破れて半裸に近い。

私が何度ギブアップと叫んでも、マホリは手をとめなかった。

号泣しながら、馬乗りになって私を殴り続けた。

意識が朦朧として気を失いそうになった時、マホリは殴るのをやめて私を抱きしめた。

「これが最後だから。もう、これで私は引退だから」

私はマホリの耳もとでそっとささやいた。

頷いたマホリは何かを言葉にしようとしたけれど、号泣して何を言っているのかわからなかった。

ただ、彼女が絞り出すように言った「ありがとうございました」という言葉だけは、何とか聞き取ることができた。

私はテスラの車窓から新宿を眺めた。

涙に濡れた街は、どこか別の惑星の都市のようだった。

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