第2話 民心

「お水、頂けますか?」

 私は上野の繁華街へとやってきていた。

 日没間近だというのに、未だに人で賑わっている。

 何に賑わっているのかは昔と変わっているかもしれないが。

「水ね、そこの番号札持って列に並んで、少し待っててな」

 そう言ってこちらに目もやらず近くの机を指さした。

 24だった。

「はい、次は13番の方!」

 ああ。この列だったか。

 最後尾へと向かう。

 水の値段はここ数十年で高騰した。

 自動販売機は数年前、日本から最後の1台が撤去された。

 かなり話題になっていたので私も知っている。

 手持ち無沙汰だったので周囲に目をやる。

 あちらで人だかりができている。

 どうやら集会があるようだ。

「……はないでは無いか!――――諸君、我々は、我々の勇敢なる正義の下に、政府の弾圧を恐てはならぬ!我々は、我々の確固たる意志を以て声をあげ続けねばならないのだ!」

 そう叫ぶ男の周りを環状に人々が囲っていた。

 周囲の人々は雄叫びをあげ、男の言葉に賛意を示した。

「諸君、良いか?我々は政府による水の値上げを断固として受け入れてはならぬ!我々は我々の為だけにこの抗議をするのでは無い。困窮なる人々をも救い、この世の在り方に憂いを抱くものをも救うのだ。我々の決意と意志、そして志はこうした純粋かつ人道的で何より素晴らしいものの上に成り立っていることを決して、決して忘れてはならぬのだ!」

 聴衆から盛大な拍手、或は野次が飛んだ。

「はいよ、次はお嬢さんね。番号札を貰えるかな」

 主人は私のブラウン色の髪と来ていた紺のワンピースと紋章に一瞥を与えた。

 私は24番を渡した。

「はいよ、何がお望みで?」

 主人は体は横を向けたまま頭だけ私の方に向け、目を見てそう言った。

「水を7升ほど頂けますか。」

「お水を7升……ね、あいよ」

 主人は手帳に書き込み、私の方を見た。

「お姉さん、7升をおひとりで?大丈夫かい?」

「大丈夫です。ご心配には及びません」

 そうかい、と言うと主人は奥に入っていった。

 チカリチカリと視界の隅が点滅した後、明るくなった。

 そうか、ここにはまだ街灯が残っているのか。

 後ろの一群はより一層熱を帯びてきた。

「我々が今相対しているのはこの国の指針である。だから我々のこの果敢なるなる嘆願は決して国賊にはされまい!寧ろ我々は正義でありこの正義を軽んじるなど言語道断!我々の――――」

 街灯が男を照らし更に注目が集まる。

 周囲の人間が1人、また1人と視線を奪われていく。

 私は主人が消えた方を向いていた。

 男の、いや、何を聞いても聞こえなかったのである。

 「何度でも言う!政府は水を初めとした我々の生活に欠かせないものを次から次へと搾取している!幸運なことに、我々はこうして生きる術がある。だがそうでない人間は今にも、そしてここにいる我々も何時かは、この事態に目を瞑り時代の激流へと飲み込まれようものならば、我々が迎えるべきものは閑散とした民主主義の中での死のみである!さすれば!我々は確固たる意志をここに宣言し、政府が翳した我々への暴力に、言論を以て闘おうでは無いか!」

 周囲を取り囲む人々は口々に賛同の声をあげ、最後は割れんばかりの拍手を持って男を称えた。

 

 私の後ろに並んでいた愚民がこう言っていた。

「彼は素晴らしい。物怖じせず首尾一貫とした意志を素直に口にできる。大した奴だ」

「全くだ。私にはあのようなことは出来ないだろう。彼のような人間が居るならば、人々は迷わぬ。光を求る者たちは彼のような人間に導かれるのだ」

 

 主人が出てきた。

「お待たせしちまったな、お姉さん。はいよ、水7升。お代はいつものように付けておくよ。あっ、そうや。」

 主人は顔を近づけて小声で言った。

「少し多めに入れとうからな、おまけや」

 主人はにかっと笑った。

「ありがとう」

 私は主人に微笑み返した。

 私は7升の水が入った袋と人の集団を背に、少し前傾姿勢で帰路へと向かった。

 1歩、また1歩と進むごとに重くなった身体を感じる。


 私は知っている。

 彼のような男を先導者と呼ぶことを。

 

 私は知っている。

 男がつい数年前、環境悪化に見舞われた現代において水資源を守るためには如何なる水資源価格の高騰でさえも甘んじて受け入れ、政府は早急に未だ有償化の進まぬ水資源を無くすよう叫んでいたことを。

 

 私は知っている。

 この静観する私もまた、1人の愚民に過ぎぬことを。


 人々の奇声が未だ聞こえていた。

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