第5話:名前のない存在

ファントムウルフと対峙してから、どれくらいの時間が経ったのだろうか。戦いは終わり、今はただ互いの存在を感じ合う静寂が広がっている。俺とこの黒い狼との間には、奇妙な繋がりが生まれ始めているのを感じた。それは戦いから生まれたものではなく、もっと深い、理解と共感に基づくものだった。


この狼は、ただのモンスターではない。強さと知性を兼ね備えた存在であり、彼との意思疎通を試みる中で、俺は彼の中に孤独を感じ始めていた。それは俺自身が抱えてきたものと同じ種類のものだった。孤独を選んだわけではなく、孤独に生きざるを得なかった――その重みが、彼にも存在している。


「……名前、あるのか?」


俺はふと、問いかけた。彼とこうして心を通わせるようになった今、自然とその疑問が浮かんできた。目の前の狼には、知性があり、意志があるのだから、名前があっても不思議ではないはずだ。


だが、俺の問いに、彼は微動だにしない。赤い瞳がこちらを見つめたままだ。俺の問いを無視しているわけではない。ただ、答えが出せないのだと、直感的に理解した。


「……お前には、名前がないのか?」


俺はもう一度、今度は少し柔らかく問いかけた。彼の瞳がわずかに揺れ、頭の中に断片的な響きが返ってきた。


「……名は……ない……」


その言葉に、俺は少し驚いた。名前のない存在――それは一体、どんな生き方をしてきたのだろうか。彼は一度も名前を持たずに、ただ戦い、生き続けてきたのか。それとも、誰かに名前をつけられることを拒んできたのだろうか。


「名前がないって……お前は一体、何者なんだ?」


俺はその疑問を口にする。彼がただのモンスターではないことは、もう分かっていた。しかし、名を持たずに生きるということが、どれほどの孤独をもたらすものなのか、俺には計り知れなかった。


「……名は、必要ない……」


頭の中に響いたその言葉には、確固たる意志があった。彼は名を持つことに意味を見いだしていないのかもしれない。いや、むしろ、名を持たないことが彼にとっての誇りや存在の証明なのかもしれない。だが、俺は逆に、その考え方が信じられなかった。


「名前がないまま、生きてきたっていうのか……」


俺は言葉に詰まった。自分の存在を証明するためには、名前が必要だと俺は思っていた。名前を持つことで、自分が誰であるかを知り、他者に認識される。それが普通だと信じていた。だが、この狼は、その常識を打ち破っている。


「……」


ファントムウルフは無言で俺を見つめている。いや、彼はいつも無言だが、その瞳の奥には、確かに何かを伝えようとしているものが感じられた。彼は名を持たずに、それでも己の存在を貫いてきたのだ。それは、ある意味で俺の生き方と似ている部分もある。


「名がない、か……」


俺は少し考え込んだ。もし彼が名前を持たずに生きてきたのなら、名前をつけることに抵抗があるのかもしれない。だが、俺は名前を持たない彼に対して、何か強く惹かれている自分を感じていた。彼に名前を与えることで、その存在をより深く感じたいと思ったのだ。


「……お前は、孤独だと言っていたよな」


俺はそっと問いかけた。彼が孤独であることは、俺自身の心に響いている。俺もまた、ずっと一人で戦ってきた。誰にも頼らず、誰も信じない。それが俺の選んだ道だった。


「……」


彼は何も言わない。ただ、その赤い瞳で俺を見つめている。俺たちの間には、もうすでに何かが通じている。それは確かだった。彼もまた、孤独に戦い続けることを選んできたのだろう。


「もし……俺がお前に名前をつけるとしたら、どうする?」


俺は突然、自分でも驚くほど自然にそう問いかけていた。彼に名を与えることで、俺と彼の繋がりがより強くなる気がしたのだ。だが、彼は名を持たないことにこだわりがあるのかもしれない。


ファントムウルフは静かに俺を見つめている。その赤い瞳には、何かを探っているような光が宿っていた。彼は、俺が何を言おうとしているのか、理解しているようだった。だが、彼は何も答えない。


「……名前をつけるのが、嫌なのか?」


俺は彼の反応を探ろうとする。だが、彼は依然として無言だ。ただ、その静かな態度が、何かを伝えているように思えた。彼は名を持つことに意味を感じていないのだろうか。それとも、名をつけられることで、何かを失うと感じているのだろうか。


「……俺は、名前を持つことが重要だと思っていた。自分が誰なのかを知るために、名前が必要だと信じてきたんだ」


俺は、自分の考えを言葉にしてみた。ファントムウルフに理解してもらおうとしているのか、それとも自分自身を納得させようとしているのかは、よく分からなかった。ただ、彼と向き合う中で、名前の持つ意味について考え始めていたのだ。


「だが、お前には名前がない。それでも、お前は強く、そして知性を持っている。名を持たないことが、お前にとっては正しいのかもしれない……」


俺は静かに言った。彼に名を与えることが、果たして正しいのかどうか、まだ答えは出ていない。だが、彼との繋がりが強くなっていることは感じていた。


「……」


彼は再び無言で俺を見つめている。だが、その赤い瞳には、何かを訴えかけるような光が宿っていた。彼は、俺の言葉を聞いていた。そして、彼なりにそれを受け入れていたのかもしれない。


「お前が名を持たないまま生きるなら、それでもいい。だが、もし俺がお前に名前をつけるとしたら、それを拒むのか?」


俺は静かに問いかけた。彼の答えを待つ間、俺の心には様々な思いが渦巻いていた。名を持たない彼に名前をつけることは、彼の生き方を変えることになるのかもしれない。だが、それが彼にとっての救いになるのかもしれないとも思った。


ファントムウルフはゆっくりと首をかしげ、俺の問いに答える代わりに、頭の中にまた断片的な響きが広がった。


「……名は、必要ない……だが……」


そこまでで途切れた言葉に、俺は何かを感じ取った。彼は名を必要としていないが、俺との繋がりには何かを感じているのかもしれない。俺はその瞬間、彼に名をつけることが必然であると感じた。


「お前が名を望んでいないのなら、無理に名をつけるつもりはない。だが……いつか、俺がつける名を受け入れる時が来るかもしれないな」


俺はそう告げた。まだ彼にその名前を口にすることはしなかったが、心の中ではすでに名前が決まっていた。



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第2章完結まで1日2話ずつ更新となります。


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