第39話 ボクの過去は暗い?

「赤ちゃんの名前、ちゃんと決めないと……か」



 湯船につかりながら、青海はぼんやりと虚空を眺めていた。

 足を広げられるほど広くなくて、立ち上がるのに少し苦労するサイズ。

 逆にそのサイズ感に安心感を覚えている。



(……あおみ)



 青海は空中に、自分の名前を指で書いた。



 青海。


 自分の名前。



 だけど、親につけてもらったものではない。

 元々自分のものだったわけでもないし、まだまだ自分の名前としてなじんでもいない。


 汐美に拾われて、つけられた名前だ。

 


(本当の名前も知らないのに、赤ちゃんに名前つけないといけないって……)



 脳裏に浮かんだのは、役所での一幕。



(役所の人、かなり困らせちゃったな……)



 もちろん、この町に戸籍があるわけでもない。

 それだけでも、青海の立場は怪しいだろう。

 その上で子供を産んでしまったのだから、役所の人は困り果てていたし、かなり白い目で見られていた。


 

(一応、ボクの過去は警察の人が調べてくれてはいるんだけど……)



 話したときの感触は良くなかったし、担当警官が真面目に捜索されているようには、青海からは見えなかった。

 面倒事を持ってきた厄介者、程度にでも見えていたのだろう。



(あー。やばい。のぼせてきた)



 考えすぎて、かなりの時間が過ぎていたのだろう。



 湯船から上がると、鏡に映った自分の姿が目に入る。


 とても女性らしい体つきをした、女性。

 胸も大きいのに、やせ型。

 男受けはいいだろう。


 ぼんやりと観察していると――

 視界がぐにゃりと歪んで、ふいによろめてしまう。


 のぼせたせいじゃない。



(なんだか、元々は男だった気がする)



 自分の認識と現実に、ズレがあるせいだ。


 手術痕もないしそんなことはありえない、と青海は考えている。

 だけど、本能めいた何かに「ボクは男だった」と訴えかけられている。


 可能性があるとするなら、1つしかない。



(もしかしたら、身投げした理由はそれ?)



 心と体の性の不一致。

 

 恋愛感情が受け入れられなかったり、かなりの疎外感を味わうだろう。

 そう考えてば腑に落ちるし、なんとか納得することもできる。


 だがしかし、謎はそれだけじゃない。


 

(でも、全身のアザはなんなんだろう)



 青海の全身には、噛み跡が刻まれていた。

 かなりの長期間、誰かに噛まれていたことになる。


 特にひどいのは左腕だ。

 かなり深い噛み痕があって、もう一生癒えない傷跡になっている。



(もしかして、ヤバい男に騙されていた?)



 思い浮かんだのは、いかにも暴力的な男。

 ピアスを着けていて、入れ墨も入れていて、ザ・不良みたいな見た目。

 女のことを人とすら思っていない、ゲス男。



(だけど、ちょっと違う気がする)



 殴られた痕はなくて噛み痕しかないのが不可解だった。

 注射痕もないし、薬物反応もない。


 ただ、噛みつかれていただけ。



(ナニ? オオカミ男とでも仲良くなってたの?)



 ついつい荒唐無稽なことを考えてしまう自分に、ため息をついてしまう青海。

 きっと、そんなメルヘンな生活は送っていなかった。

 送っていたら、海に飛び込んで記憶喪失になんてなるわけがない。



「……はぁ」



 ため息をつくと、洗面所からドアが開く音が聞こえた。

 擦りガラス越しに、不安そうに揺れ動く人影が見えて、青海はわずかに眉をひそめた。



「ねえ、青海ちゃん、何かあった? お風呂長いけど」

「あ、えっと、すみません。汐美さん。考え事をしているだけで……」

「そう。それならいいの」



 しばらくの無言。



(なんで動かないの?)



 不思議に思って、声を掛けようとした瞬間――



「ねえ、一緒にお風呂入っていい?」



 絞り出されたような声が、湯気で湿った空気を揺らした。



「え? さっき入ってたんじゃ……」

「いいじゃない。仲良くなるのには、裸の付き合いが一番だし」

「でも……」

「ねえ、ダメ?」



 おねだりではなく、恐る恐るといった声色だった。



「……どうぞ」

「ありがとう」



 すぐに、衣擦れ音が響いて、全裸の汐美が浴室に入ってきた。



「あら、ちょっと狭いわね」

「ボクはもう十分あったまったから、湯船に入ってて」

「あら、それなら背中を流していい? ついでに髪も」



 キラキラした目を向けられて、青海はたじろいだ。



「まあ、はい……」

「ありがとう」



 それから、無言で体と髪を洗われて、お風呂から上がった。



「髪を乾かしてあげるわね」

「そこまでは……」

「いいの。私がやりたいの」

「……はい」



 おねだりしているような所作だけど、有無を言わせない押しの強さがあった。


 青海は大人しく、ドライヤーでじっくりと髪を乾かしてもらうことにした。。

 だけど髪を触られるのに慣れなくて、ちょくちょくむずむずしていた。


 ふと、汐美が楽しそうにいう。



「うふふ。思い出すわ。昔もこういう風によく乾かしてたわ」



(昔……)



 ふと、線香の匂いが漂ってきた。

 幻覚じゃない。


 隣の和室から、現実の匂いとして漂ってきている。


 青海は突然使命感に背中を押されて、口を開く。



「あの、ボクは娘さんでは……」



 それ以上は、口に出せなかった。



(ボクが拾われた理由)



 代用。



「…………」



 無言の汐美。

 首筋にずっとドライヤーの熱風が当たり続けている。


 首が熱せられているせいか、酷く喉が渇く。



「それよりも青海ちゃん。明日、お出かけしない? 着てみてほしいお洋服があるの」

「……はい」



 これ以上踏み込んではいけない。

 そう直感した。



(なんだか申し訳なくて、寂しい気分)



 誰かの代用にされて、いい気分でいられるわけがない。


 でも、我儘を言ってはいけない。

 記憶喪失な上に身重だった自分を拾ってくれて、本当に感謝しているから。


 これ以上迷惑を掛けてはいけない。

 いい娘になりきらないといけない。



「今日は早めに寝なさい。青海ちゃん」

「はい。汐美さん。おやすみなさい」

「おやすみなさい」



 逃げるような早足で階段を昇り、部屋に入る。

 すぐに布団の中に入るけど、すぐに寝られそうになかった。



(明日も、頑張って生きないと)



 朝起きるたびに、青海は疑問に思ってしまう。

 なんで自分は生きているのだろうか。

 なんで死んでいないのだろうか。


 もしかしたら、今いるのは天国ではないだろうか。

 なんだか生きた心地がしない。


 だけど、生きないといけない。


 赤ちゃんもいる。

 汐美さんもいる。


 赤ちゃんの名前も決めないといけない。

 少しおかしいけど、汐美さんに恩返しをしないといけない。


 生きるためには、そのうち仕事もしないといけない。 

 やらないといけないことに溺れていて、いつもあっぷあっぷだ。


 それでも生きる理由があることに、痺れに似たもどかしく感じていた。





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すみません、更新が遅れました


おのれ、ポケモンカードのアプリ……!

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