第35話 愛されていなくてよかった

 昼間なのに、灯りが点いていた。

 家の中からは、物音の1つも聞こえてこない。


 鍵は不用心にもかけられていなくて、すんなりとドアノブが回った。


 ギギギ、とドアが悲鳴を上げても、人がいる気配もない。

 だけれど、かすかにテレビの音だけは聞こえている。


 今流れているのは、何かの通販番組だろうか。

 電話番号を繰り返しているオーバーな声が、静かな部屋に響いている。



 ゴクリ、と。

 喉の鳴る音が聞こえて、ケンは葵生の横顔に目を向けた。



「……葵生」



 ケンが呼びかけると、葵生は固い表情のまま、口元を少し歪めた。



「ケンは入らなくていいよ」



 無理に笑顔を作ろうとしている。

 誰が見ても、そう感じ取っただろう。



「いや、一緒に行く」

「…………」



 口を開かずに、ケンの手を握る葵生。

 指は普段の何倍も震えていて、冷たくて、ケンは力強く握り返した。


 ドアを開けると、最初に目に入るのは玄関とキッチン。

 だけど、ゴミだらけで足の踏み場どころか、人が通れるスペースすら見当たらない。



(酷い臭いだ)



 だけど、廃墟で嗅いだ時の腐臭とは全く違う。

 ゴミからあふれ出ているのだろうか。


 ゴミをかき分けながらリビングに入ると、また視界はゴミだらけだ。

 だけど1箇所だけゴミが少ない所があって、布団が敷かれている。


 そのすぐそばに、うつむけの人影。

 葵生の父親。



「…………え?」



 明らかに、生きた人間の肌色ではない。

 まるで燃えた線香の灰のような白さだった。


 息を呑む音が、2つ響いた。


 葵生はおっかなびっくりといった様子で、近づいていく。

 


(葵生は、どっちを願ってるんだろうな)



 きっと、どっちでも地獄だろう。

 ケンは想像して、見届けることしかできない。


 葵生の震える指が、白すぎる肌に触れていく。

 その瞬間を。



「……つめたい」

「そうか」



 臭いがあまりしないことから、そこまで時間が経っていないだろう。


 2人で死体を仰向けにすると、酷い顔をしていた。

 まるで拷問を受けたみたいに、苦痛に満ちた顔をしていた。

 目は見開かれて、眉と口は歪みすぎていて、手は胸元を強くおさえている。


 おそらく、心臓の病気だろう。



(オレも、病気で死んだらこんなに苦しそうな顔で死ぬんだろうな)



 死体を見ていられなくて周囲を見渡すと、気になる物が

 線香。

 和菓子ミックス。

 枯れかけのスミレ草の花束もある。


 

(もしかして、墓参りに行く前だったのか?)



 どういう心境で、墓参りに行こうとしたのだろうか。

 子供は行方不明の状態だから、無事を願うためだったのだろうか。

 それとも、純粋に亡き妻をしのんでいたのか。


 もう、わからない。



「確か、3日前は母親の命日だった……と思う。毎年花を買ってきていたから」

「それだけ、想ってたのか」

「僕にはそんな素振りも見せなかったのにね」



 葵生の父親は、愛を知らない化け物ではなかった。

 愛情深い人間だった。

 命日に欠かさず墓参りに行くほどに。


 だけど、その愛は子供に向けられることはなかった。



(あまりにも、残酷だ)



 ケンは、葵生に伸ばそうとしていた手をひっこめた。

 かける言葉が何も思いつかなかったから。



「じゃあ、行こうか」

「いいのか?」

「うん。このまま放置しよう。腐れば近所の人が臭いで気付くでしょ」



 早足で部屋を出る葵生。

 慌てながら追いかけるケン。


 しばらく住宅街を進んでいくと、突然葵生が急に止まった。



「おい、大丈夫か?」



 振り向いた葵生の目元は、真っ赤に腫れていた。



(……泣いてる)



 涙を見せてもなお、葵生は気丈にふるまおうとしている。 



「あーあ。イヤだ。死んで父親とお別れできると思ったのに、死んでもあの世にいるじゃん」

「…………」



 ケンは何も言えない。

 言葉が浮かんでこない。



「なんとなく、最初はいい父親だった気がするんだ。思い出せないけど」

「…………そうなのか」



 やっと出せた言葉がただの相槌だったことに、ケンは下唇を噛んだ。



「でも、妻――僕から見れば母親を失って狂った」

「どれだけ愛してたんだろうね。僕はどれだけ愛されなかったんだろうね。多分、僕は所有物に過ぎなかった」



 諦め。

 葵生の顔が表していた、寂しい2文字。



「だったら大丈夫だろ。死んでもお前に会いに行かない」

「確かにそうかも。きっと、夫婦で仲良くやってるか」

「きっとそうだ」



 葵生はゆっくりと空を見上げた。

 もしかしたら、夫婦睦まじい姿を想像しているのだろうか。



(いや、葵生に限ってそんなことはないか)



 どんなことを考えているのか、想像できない。

 きっと、平和でメルヘンなことは考えていないだろう。


 空に手を伸ばした葵生は、グッと背伸びをして、叫ぶ。



「あーあっ! 愛されていなくてよかった」



 冬に移り変わる透き通った空気に、残酷な言葉が溶けていった。



「……葵生」

「そんな顔しなくていいよ」



 葵生を指さすケン。



「葵生も、酷い顔してる」

「え、そうなんだ……」



 葵生の手が、自分の頬に触れた。



「あはは。そうなんだ。バカみたいだっ!」



 葵生は「あははははははははは!」と不気味に笑い始めた。

 何に対して笑っているのだろうか。


 親の死に対して?

 それとも、死んだ後の自分に対して?


 ケンにはわからなかった。

 近寄ることも、抱きしめることもできなかった。

 ただただ一歩離れて、眺めることしかできなかった。



 その笑っている姿があまりにも美しくて、見惚れてしまったから。



 ジリジリと何かが焼ける音とともに、ケンの網膜に、脳内に焼き付けられていく。

 

 葵生のことは大好きなのに。

 心の底から、幸せに鳴って欲しいと願っているのに。

 そのはずなのに――


 いつもいつも、狂い泣いている姿に見惚れてしまう。

 見ていて苦しいはずなのに、本当に悲しくて悔しくて思わず涙ぐんでしまうのに、脳内に焼き付いてしまう。

 自然と、惹かれてしまう。



(ああ、オレは……)

 


 突然、心臓が痛んだ。

 バクバクと高鳴って、息が苦しくなった。

 自分の体に自分の命を壊される感覚。



「――っ!」



 必死になって息を整えると、ようやく落ち着いてきた。


 

(薬、飲んだよな……?)



 これが病気によるものなのか、それとも心労のせいなのか。

 想像すらしたくなくて、自分の心臓をギュッと握りしめるのだった。

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