第17話 強く噛んで①
部屋は暗かった。
電灯は1つも点けていなくて、月明かりも雲が隠してしまっている。
いくら目を凝らしても、自分の手の輪郭すら見えない。
(ケンの部屋に来るつもりはなかんたんだけど……)
道路の上でうずくまっていた葵生はケンに見つかったのだけど、すぐに逃げ出そうとした。
だけれど結局、ケンに力で勝てるわけもなく部屋まで連行されてしまったのだ。
(なんていうか、力で勝てないんだ……)
葵生は不思議な気持ちになりながら、引っ張られた右腕を、音がでないぐらいゆっくりとなでた。
「なあ、電気を点けていいか?」
ケンの声。
すぐ隣にいる。
おそらくは行儀よく体育座りをしているだろう。
「ダメ」
「なんでだよ」
「顔、ひどいから」
葵生は自分の顔を触ると痛みが走って、顔をしかめた。
父親に殴られたせいでひどく腫れあがっている。
さすがの葵生でも、今の顔を見られるのには羞恥心があった。
「もうすでに一回見てるんだが」
「それでもダメ。じっくり見ないで」
「なんだよ、それ」
ガタッ、と。
突然、物を落ちる音がきこえた。
ケンが「ひあっ!?」と情けない声をあげると、葵生はクスクスと笑った。
「お前も知ってるだろ。暗いのはメチャクチャ怖いんだぞ」
「いいじゃん。怖いぐらい。」
「オレが家主なんだけど」
「でも連れ込んだのはケンでしょ。少しぐらい我儘聞いてよ。ケンぐらいにしか、我儘言えないんだから」
「まったくしょうがないなぁ」
暗闇でお互いに姿が見えない。
だけど葵生には、ケンが頭をポリポリと掻いているのだと理解できた。
「ねえ、ケン」
「なんだ?」
「僕が何をやったか、聞いてる?」
「……殴ったんだってな」
葵生は女子トイレでの一幕を思い出そうとしたけど、相当興奮していたのか、記憶はおぼろげだった。
「うん。イジメを目撃したから」
「それでも、やり過ぎだ」
「……気がついたら、やり過ぎてた」
「葵生は結構衝動的だからな」
「ねえ、ケン。僕ってやっぱりおかしいよね?」
葵生の声は、震えていた。
「どうしたんだ。藪から棒に」
「人を簡単に殴るのって、おかしいよね」
「……そうだな。でも、そんなやつはいくらでもいる」
ケンの言葉が届いているのかいないのか、葵生は膝に顔をうずめた。
「でも、それだけじゃない。アイツに殴られて、少し嬉しかったんだ」
「殴られて、嬉しい……?」
ケンが発した声は固かった。
「うん。ああ、殴ってくれるんだ。安心する。心のどこかで、そう思っちゃった。本当に痛くて苦しいはずなのに」
「…………」
今度は何も言わないケン。
痺れを切らしたのか、葵生がケンの手を握った。
「ねえ、ケン。軽く殴って」
「なんでだよ」
「殴ってくれたら、ちょっとわかるかも」
「……女は殴りたくないんだが」
「元々男だし、今は暗くて見えないじゃん」
「でも……」
「お願い。ケン」
葵生の真剣な声に応じて、ケンは唾を呑んだ。
ポコ、と。
軽く叩くと、葵生は不服そうに「もっと痛くして」と言った。
もう一度叩かれても、まだ足りないのか「もっと」と繰り返す
「痛いのが好きなのか?」
ケンからの質問を聞いて、葵生は困惑した。
「わかんない」
「なんでわかんないんだ?」
「この気持ちが本当に〝好き〟なのかがわからないから」
ケンの困惑が、声音から伝わる。
「普通、わかるだろ」
「やっぱり普通じゃないよね。みんな〝好き〟って簡単に言うけど、僕には」
「……なるほどなぁ」
「ただ、痛いと落ち着く。生きてる実感があるし、ちょっと楽しくなる」
「それは好きなんじゃないか?」
「そうなのかな。でも、痛いのが〝好き〟なのはおかしくない?」
「好きにおかしいも何もないだろ」
「そうかな?」
葵生の頭に、ケンの手が伸びた。
優しくなでられて、無意識に身をゆだねた。
「好きって、もっと楽に考えていいんだ。嫌いじゃなかったり、少し」
「そうなの?」
「みんな、そういうちょっとした感情でも好きって表現してるんだ」
「思ったより軽い」
「軽くていいんだよ。好きって言われて嫌な人はいないんだから」
「たしかに、そうかも」
葵生はため息を吐いた後、言葉を継ぐ。
「〝好き〟って何なんだろうね」
「考えなくていいんだ。好きって言いたくなったら好きって言えばいい。それだけだ」
「うん。じゃあ、痛いのは〝好き〟かもしれない」
「……そうか」
どう反応していいのかわからないのだろう。
ケンは葵生の頭を撫で続けた。
「ねえ、僕って普通に過ごせると思う? こんな僕が」
「過ごせるさ。オレもそう望んでいる」
「ケンも望んでるの?」
「ああ」
葵生はケンの手を優しくのけて、慎重に立ち上がった。
「じゃあ、ケン、1つお願いしていい?」
「なんだ?」
スルスル、と。
服を脱ぐような音が響いた。
ケンは息をするのも忘れて、無意識に衣擦れ音に耳を澄ましていた。
「僕の腕を、噛みつぶして」
深海を泳ぐ魚のようにゆったりと伸びる、葵生の細い腕。
何かで湿った指が頬に触れた瞬間、ケンの体はピクリと跳ねた。
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