第10話 アルカディアの危機

 アルカディアの空に、不吉な雲が立ち込めていた。

 魔法学園の尖塔から見上げると、空がゆらゆらと揺れているように見える。

 それは、この世界の根幹を成すマナの流れが乱れている証だった。


 魔法評議会の緊急会議が開かれたのは、リリアが失踪してから3日後のことだった。

 評議会の大広間には、アルカディア中から集められた最高位の魔法使いたちが集っていた。


「諸君、我々は未曾有の危機に直面している」


 議長を務めるマーカス長老の声が、静まり返った広間に響き渡る。

 彼の深いしわの刻まれた顔には、普段の穏やかさは見られず、深刻な表情が浮かんでいた。


「我が学園の誇る天才、リリアの失踪により、時空の歪みが生じ始めているのだ」


 その言葉に、広間にざわめきが起こった。


「どういうことだ? たかが一人の見習い魔法使いが消えただけで、そこまでの影響があるというのか?」


 年配の魔法使いの一人が声を上げた。

 しかし、その言葉に若い女性の魔法使いが反論する。


「リリアは『たかが』ではありません! 彼女の才能は、私たちの想像を超えるものでした」


 マーカス長老は、両者に向かって静かに手を上げた。


「その通りだ。リリアの持つマナの力は、我々の予想をはるかに超えていた。そして、その力が突如としてこの世界から消えたことで、マナの流れに大きな乱れが生じているのだ」


 彼は杖を掲げ、空中に複雑な魔法陣を描き出した。

 そこには、アルカディア全土のマナの流れが可視化されている。

 通常なら美しい渦を描くはずのマナの流れが、今や乱れに乱れ、所々で歪んでいるのが見て取れた。


「ご覧の通りだ。このままでは、我々の世界の秩序が崩壊しかねない」


 広間は再び静まり返った。

 誰もが、事態の深刻さを理解したのだ。


「では、どうすれば良いというのだ?」


 声を上げたのは、評議会の古参メンバーの一人、グレゴリーだった。

 彼の鋭い眼光が、マーカス長老に向けられる。


「リリアを見つけ出し、連れ戻すしかありません」


 答えたのは、リリアの担任教師であるエレナだった。

 彼女の声には、生徒を失った悲しみと、それを取り戻そうという決意が混ざっていた。


「しかし、どこにいるかも分からぬ者を、どうやって探すというのだ?」


 グレゴリーの反論に、エレナは一瞬言葉に詰まった。

 しかし、マーカス長老が静かに口を開く。


「その方法はある。リリアの失踪した場所に残されたマナの痕跡を辿るのだ」


 彼は再び杖を掲げ、魔法陣を変化させた。

 そこには、リリアが最後に姿を消した試験会場の様子が映し出されている。


「見たまえ。ここに残された歪みは、通常の空間転移魔法とは明らかに異なる。恐らく、リリアは自身でも制御できないほどの力で、別の次元に飛ばされてしまったのだろう」


 評議会のメンバーたちは、息を呑んだ。

 別次元への転移は、伝説の中でしか語られたことのない魔法だった。


「では、我々もその次元に行けるというのか?」


 質問したのは、若手の魔法使いだった。

 彼の目には、冒険心と不安が入り混じっている。


 マーカス長老は、深いため息をついた。


「簡単ではない。しかし、不可能ではないはずだ。我々の持てる力を結集すれば、リリアの行った次元への扉を開くことができるかもしれない」


 その言葉に、評議会のメンバーたちは互いに顔を見合わせた。

 誰もが、その試みの危険性を理解している。

 しかし同時に、それが唯一の希望であることも分かっていた。


「では、具体的にどのような手順で?」


 エレナが前に進み出て尋ねた。

 彼女の表情には、強い決意が浮かんでいる。


 マーカス長老は、ゆっくりと説明を始めた。


「まず、リリアが消えた場所に大規模な魔法陣を描く。そして、我々全員のマナを注ぎ込み、時空の歪みを再現する。そこから、リリアの痕跡を辿って、彼女のいる次元への扉を開くのだ」


「それは、非常に危険な試みではないでしょうか」


 懸念を示したのは、評議会の医療魔法専門家だった。


「その通りだ。失敗すれば、我々自身が別次元に飛ばされる可能性もある。しかし…」


 マーカス長老は、厳しい表情で全員を見回した。


「このまま時空の歪みを放置すれば、我々の世界は確実に崩壊への道を辿る。リスクを取る価値は十分にあるはずだ」


 広間に、重い沈黙が落ちた。

 誰もが、事態の重大さと、自分たちに課せられた責任の重さを感じていた。


「私は賛成です」


 沈黙を破ったのは、エレナだった。


「リリアは私の生徒です。彼女を見捨てるわけにはいきません。それに、彼女の才能は、アルカディアの未来にとって不可欠なものです」


 エレナの言葉に、次々と賛同の声が上がり始めた。


「私も賛成だ」

「やるしかない」

「アルカディアのために」


 マーカス長老は、僅かに微笑んだ。


「では、決まりだな。直ちに準備にとりかかろう」


 評議会のメンバーたちは、それぞれの役割を確認し合い、急ピッチで作業を開始した。

 大規模な魔法陣の設計、必要な魔法素材の調達、そして何より、この前代未聞の試みに対する精神的な準備。


 その間も、アルカディアの空の歪みは刻一刻と広がっていった。

 時折、現実が揺らぐような奇妙な現象も起き始めていた。

 木々が突如として色を変えたり、建物が一瞬にして形を変えたりする。

 一般の市民たちの間にも、不安が広がっていった。


「一体何が起きているんだ?」

「世界の終わりが来るのでは?」

「魔法評議会は何をしているんだ!」


 そんな声が、街中で聞これ始めていた。


 評議会は、この事態を市民たちに隠すことはできないと判断した。

 マーカス長老自ら、アルカディア中央広場で声明を発表することになった。


「市民の皆様、我々は未曾有の危機に直面しております。しかし、どうか恐れることはありません。魔法評議会は全力で事態の収拾に当たっております」


 その言葉に、集まった市民たちからはさまざまな反応が返ってきた。

 安堵の声、怒りの声、そして恐怖の声。

 マーカス長老は、それら全てを受け止めながら、毅然とした態度を崩さなかった。


「我々は必ず、この危機を乗り越えます。そして、より強固なアルカディアを築き上げるのです」


 その言葉に、少しずつではあるが、市民たちの間に希望の光が灯り始めた。


 評議会に戻ったマーカス長老を、エレナが出迎えた。


「準備は整いました。あとは実行するだけです」


 マーカス長老は深くため息をつき、そして決意に満ちた表情で頷いた。


「よし、では始めよう。アルカディアの未来が、我々の手に懸かっているのだ」


 こうして、リリアを取り戻し、アルカディアを救うための壮大な作戦が、いよいよ開始されようとしていた。

 時空を越えた戦いの幕が、今まさに上がろうとしていたのである。

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