第6話

 発表会が終わり、僕たちは大きな成功を収めた。観客たちの喝采が、まだ耳に残っている。ジャックと僕が二人で作り上げた「月の光」のアレンジは、予想以上に反響を呼んでいた。ローズピアノでの演奏は予定外の出来事だったが、それがむしろ僕たちの音楽を一層神秘的にし、ブランデーのような重厚な味を生み出したのだ。


「お前、すげえよ」


 発表会が終わった後、ステージ裏でジャックが僕に向かって言った。


「まさかあんな演奏できるとは、思ってなかったぜ」


「君だって、素晴らしかったよ」


 僕は少し照れくさく笑いながら答えた。


「なあ、アレク。今日の夜、打ち上げをしようぜ。俺の部屋に来いよ」


 ジャックは肩を叩きながら提案してきた。


「打ち上げ?」


 僕は少し驚いた。普段、打ち上げなんてあまり馴染みがない僕にとって、彼の提案は少し大胆に感じられた。


「おう、二人で朝まで飲もうぜ。って言っても、酒じゃねえけど。俺とお前、最高の演奏に乾杯しよう」


 僕はその笑顔に引き込まれ、自然と頷いていた。


「うん、いいね」


 ---


 夜になり、僕はジャックの部屋を訪れた。彼の部屋には、いつもの散らかった様子があり、相変わらず、気取らない彼らしさが漂っていた。


「待ってたぜ、アレク」


 ジャックは僕を迎え入れ、いつものソファでなく、ベッドに腰を下ろすよう促した。


「君の部屋、前より散らかってない?」


 僕は少し笑いながら、散らかった部屋を見渡した。


「まあ、これが俺のスタイルだからな」


 ジャックは軽く肩をすくめ、冷蔵庫から瓶のコーラを取り出して僕に差し出した。


 僕はそのコーラを受け取り、軽く乾杯をした。冷たく、甘い炭酸が喉を通り抜けると、今日の成功を少しずつ実感できるようになってきた。


「はあ…お前と一緒に演奏できて、本当に良かったよ」


 ジャックが余韻に浸りながら言った。


「お前は、俺が出会った中で、一番のパートナーだ」


 僕は驚きつつも、心の中が温かくなるのを感じた。


「ありがとう、ジャック。君がいなければ、僕はここまでやれなかったと思う」


「それは違うな」


 ジャックは僕をじっと見つめた。


「お前は、最初から特別だった。お前はきっと、俺とじゃなくても、いい演奏をしたに違いない。けど、俺は違う…俺には、お前しかいないんだ」


「な、に、急に…」


「お前と一緒にいると、俺は音楽の世界の一員に加われたみたいな気分になる。自分も音楽家を名乗っていいんだって、認められたみたいで、すっごく嬉しいんだよ」


 彼の言葉に、僕は一瞬戸惑った。そのまっすぐな視線に、僕は上手く応えられないでいる。


「なあ、アレク」


 ジャックが少し間を置いてから、低い声で続けた。


「俺、お前に伝えたいこと、あるんだ」


「な、何?」


 僕はようやく、彼を見つめ返した。と言うより、その眼差しから逃げられなくなった。それはいつもの冗談のような、軽いノリとはまるで違う。とても真剣で、真摯な眼差しだった。息がかかるほどの距離で、彼はこう囁いた。


「俺、お前のこと、好きだ」


 ジャックは真っ直ぐに、力強く、言葉を紡いだ。


 その言葉を聞いた瞬間、僕の心は一瞬で跳ね上がった。彼が何を言ったのか、すぐには理解できなかった。僕はただ、彼を呆然と見つめていた。そこには、冗談めいた表情は一切なく、真剣な感情が宿っていた。


「君が…僕を?」


 僕は戸惑いながら、言葉を探した。


「ああ、そうだよ。最初は周りがライバルだって囃し立てるから、どんなもんかって興味があった。でも、実際に競い合って、一緒に音楽を作って、演奏して、色んな時間を過ごしてるうちに、お前に惹かれるって気づいたんだ」


 ジャックの声は、どこか静かで落ち着いていた。


 僕はその言葉に、胸が締め付けられるような感覚を覚えた。彼の告白は、思いもよらなかった。僕も彼との時間を楽しんでいたし、彼と一緒にいることが心地よかった。でも、それが、まさか相手の方から、愛情という形で示されるなんて、考えてもいなかった。


「ぼ、僕…」


 自分が何を言うべきか分からなかった。こんな時まで正解を探してしまう癖は、いつまでたっても治らないみたいだ。固まっている僕を見て、ジャックは優しく笑い、僕の頭を撫でた。


「ま、無理に応える必要はねえよ。お前の気持ちを、知りたいのはある。でも、困らせたいわけじゃないんだ。ただ、俺はお前のことが好き。それを伝えたかった」


 はにかみながら言う彼の言葉が、僕の胸に深く響いた。今、僕は彼のことをどう思っているのだろう?ただの友人?ライバル?危機を乗り越えたパートナー?それとも、もっと特別な存在として?


 答えなんか、とっくに出ているはずだった。何を今更、迷っているのだろう。きっと彼より先に、これが恋だと自覚していたはずじゃないか。


 僕はジャックの顔を見つめ、そして自分の中にある感情が次第に形を成していくのを感じた。彼と過ごした時間、彼との音楽、彼の優しさと自由な心。それらすべてが、僕にとって大切なものだ。


「僕も…君のことが好きだよ。君の音楽が、じゃない。君が…君のことが、好きなんだ」


 僕は静かに、でも確信を持って答えた。


 ジャックの目が少し驚いたように見えたが、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。


「そっか…お前も、俺のこと、思ってくれてたんだな」


 ジャックは、そっと手を伸ばし、僕を優しく抱きしめた。


 全身から、喜びが伝わってくる。音楽を通じて繋がった僕たちの心は、さらに深い場所で結びついていた。


「お前、意外と体温高いな」


 ジャックがそっと呟いた。


 僕は彼の胸に顔を埋め、心が落ち着いていくのを感じた。彼の体温が、僕の心にまで届くようだった。僕はただ、そのぬくもりに包まれながら、彼の存在を感じていた。


 僕たちは言葉を交わすことなく、ただお互いのぬくもりを感じ続けた。ジャックの手がそっと僕の髪に触れ、指先がゆっくりと僕の頭を撫でた。その感触が心地よくて、僕は目を閉じた。


 彼の手の動きは、まるで優しい音楽のようだった。リズムがあり、メロディがあり、その先に心がある。そんな指先の動きは、僕の心を穏やかにしてくれた。


「お前に触ってると、なんか安心する」


 ジャックが耳元で囁いた。


「うん。君が僕を抱きしめてくれると、僕も安心するよ」


 僕は彼に静かに答えた。


 僕たちの間に静寂が訪れる。直接的な言葉はこれ以上必要ない。触れること、寄り添うこと、感じることが、十分、言葉の役割を果たしていた。


 ジャックの指先が、僕の頬をそっと撫で、その感触を素直に受けていれている自分がいた。彼の指先の動きは、ピアノを演奏している時とは違い、どこか慎重で、でも決してためらいを感じさせるものではなかった。


 しばらくの間、お互いに軽く触れ合いながら、黙って温もりを共有していたのに、ふと目があった瞬間に、自然とその唇に吸い寄せられていた。


 彼の唇が僕に触れた瞬間、まるで世界が静止したかのような感覚に包まれた。


 優しくて、温かくて、そして深い愛情が、その一瞬にぎゅっと詰まっているようだった。ジャックの体が、エネルギーが、僕の中に溶け込んでいくようだ。互いの流れが混ざり合うような奇妙だけど、どこか懐かしい感覚。


 彼と過ごす初めての夜は、まるでピアノの連弾のように、ゆっくりと紡がれ、ぎこちなかった演奏は、次第に共鳴し、調和していった。


 身の心も繋がる瞬間は、きっと、世界で一番美しい瞬間だったに違いない。いつか映画で見たような、神聖さがあった。僕はこの美しい場面を、暖かな気持ちを、生涯忘れないだろう。

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