第5話
セレスティアル音楽院、冬の中間発表会が近づくにつれ、僕とジャックの練習は、さらに熱を帯びていた。僕たちは学年の代表として、ドビュッシーの「月の光」を、全校生徒の前で披露する予定だった。一人でも弾ける曲だったけど、僕たちはあえて連弾という形式を選んだ。練習を重ねるたびに、僕たちの演奏は完璧に近づいていった。ステージの上で、二人の音が一つになる瞬間を心から楽しみにしていた。
彼と一緒にいると、その自由な精神に触れ、僕自身も、新しい自分に生まれ変わったような感覚を覚える。だけど、新しくなった僕を、彼以外は、まだ知らない。こんなにも好奇心と遊び心に満ちた僕を、早く世界に見せつけてやりたい。
完璧ばかりを追求して、ミスをするたびに落ち込んでいたあの頃の自分が、ひどくつまらないものに思えるくらい、僕は変化したと思う。二人で奏でる音楽で、会場中を酔わせてやりたい。
そんな思いを抱えて、ついに迎えた発表会当日。僕たちは、ステージに上がるため、舞台袖へと移動した。
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だが、本番の時間が差し迫る中、予期せぬ問題が発生した。
ジャックが舞台裏で最終確認をしようとピアノに近づくと、その顔色が急に曇った。彼の視線は、ピアノの鍵盤に注がれていた。
「なんだよ、これ!」
ジャックは、驚きと怒りが混ざった声で呟いた。
僕が急いで近づいて見ると、ピアノの鍵盤が壊れていた。いくつかの鍵盤は外れ、内部のハンマーは曲がり、まったく使い物にならない状態だった。これは明らかに意図的に破壊されたものだ。
「誰かが…ピアノを壊したんだ。なんてことを…!」
僕は驚愕と怒りで言葉が詰まった。
「くそ…きっと、あいつらだ」
ジャックの声は低く、冷たい怒りを感じた。
僕はすぐに理解した。ジャックを快く思っていない先輩たちが、以前から彼に嫌がらせをしていた。その先輩たちが、今回の発表を妨害しようとして、本番直前になってピアノを破壊したに違いなかった。
「どうしてこんな卑劣なことを…」
僕は動揺していた。せっかくここまで練習を重ね、完成させた作品が、発表できなくなるなんて想像すらしていなかった。
それに対する怒りもあるが、何よりもクラシックにこだわっていた彼らが、楽器を破壊するなんて…そんな不敬で、卑劣な行為を許すわけにはいかなかった。
「こんなクソみたいな嫌がらせ…許せねえ」
ジャックも同じ気持ちなようで、拳を強く握りしめ、悔しさを滲ませていた。
「どうしよう。これじゃ演奏が…」
僕は必死に考えようとしたが、どうすればいいのか分からず、頭が真っ白だった。時間も迫っている。壊れたピアノを修理する余裕なんてなかった。
「他にピアノはないのか?」
ジャックが必死にホールの裏を見渡しながら尋ねた。
「このホールにあるグランドピアノは、これだけだったはずだ」
「校舎から運ぶ時間もなさそうだな」
もうすぐ現代音楽学部の生徒たちが発表を終えるはずだ。彼らはバンド編成や、電子楽器を多用した実験的な構成のはずだから、舞台上にも使えそうなグランドピアノはない。僕は絶望感に押しつぶされそうになっていた。
ジャックは一度深呼吸をし、少し冷静になった。
「諦めるわけにはいかねえ」
その言葉に、僕は彼の顔を見た。ジャックはこんなことには屈しないぞと、その目に決意を宿していた。僕はその力強い瞳に引き込まれるように、自分もまだ諦めるわけにはいかないと思った。
「でも、どうやって?」
僕はまだ方法が見つからず、焦りだけが募った。
「どんな形でも、俺たちの音楽を届ける。ここまでやってきたんだ。こんなクソみたいな嫌がらせに負けるかよ」
ジャックは冷静さを取り戻しつつ、力強く言った。
僕はその言葉に頷いた。
「そうだね…僕たちが諦めるわけにはいかない」
僕たちは必死にピアノの代替手段を探していた。その時、ステージの隅に置かれていた楽器が目に入った。シートの下にあったそれは、古びたローズピアノだった。
「これなら使えるかも…」
僕はローズピアノに近づき、状態を確認した。電源は問題なく入る。
「ローズピアノか…悪くねえな」
ジャックが少しイタズラっぽい笑みを浮かべた。
「ちゃんと使ったことはねえけど、即興なら慣れっ子だ」
ローズピアノは、電子楽器でありながら、どこかビンテージ感があり、クラシックな音色を持っている。エレキギターと同じ要領でアンプに繋いで演奏するスタイルの鍵盤楽器だ。僕たちの「月の光」のアレンジに、新たな表情を加える可能性があった。
「これでやるしかないね」
僕は覚悟を決めて言った。
「ああ、これなら、あいつらを見返してやれる」
ジャックの目には、まるで「自分の音楽は死なない」と主張するような、復活の炎が宿っていた。
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ついに本番の時間がやってきた。ステージに立った僕たちは、ホールの中を静かに見渡した。観客の視線が、一斉に僕たちに向けられる。通常ならばグランドピアノで行うはずの演奏だが、今日は急遽ローズピアノで音楽を披露することになった。観客たちも、その異変に気づいているようで、ざわめいている。
ジャックが僕に軽く頷き、僕も深呼吸をして応えた。そして、彼が静かに鍵盤に触れ、ローズピアノの温かい音色がホール全体に広がり始める。
どこか柔らかく、ややメランコリックな響きは、ドビュッシーの「月の光」にぴったりだった。ジャックはローズピアノの特性を見事に使いこなし、彼らしい自由で楽しげなスタイルで演奏を進めた。僕はそれに合わせて、慎重に音を重ねていく。
僕たちが練習してきたアレンジは、この古びたピアノの音色に驚くほどマッチしていた。普段のグランドピアノでは出せない、独特の温かさと懐かしさが、僕たちの演奏に新たな深みを加えていく。
ジャックの即興のフレーズが始まると、ローズピアノの音色は、まるで深く響き渡る水面のようだ。初めて彼の演奏を聴いた時に感じた、心地のいい酩酊感が蘇る。彼の自由で遊び心のあるアプローチは、まさにこの楽器にぴったりだった。僕も彼に導かれながら、メロディに新たな命を吹き込んでいく。
観客はその音楽に引き込まれ、ホール全体が僕たちの奏でる、ブランデーの様な濃厚な響きで満たされていくのを感じた。誰もが僕たちの演奏に集中し、音楽に酔っている様子だった。
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演奏が終わると、ホールはしばらくの間、静寂に包まれた。その沈黙が、僕たちが作り上げた音楽の余韻を感じさせた。そして次の瞬間、ヴィクトリア・ホール全体が拍手喝采に包まれた。
僕はジャックの方を見た。彼は汗を拭きながら、笑みを浮かべていた。僕たちは困難を乗り越え、見事に演奏をやり遂げたのだ。
ジャックが僕に手を差し出し、僕はその手をしっかりと握り返した。
「やったな、アレク」
ジャックの目には、達成感が溢れていた。
「うん、君と一緒だったから、乗り越えられた」
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あの後、ピアノの破壊工作をした生徒は炙り出され、退学処分となったことで、僕たちの学校生活には平和な時間が訪れた。
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