第4話

 あれ以来、僕たちは教室ではもちろん、練習室や寮の談話室でプライベートな時間を共に過ごす機会が増えた。彼は相変わらず自由で奔放なところがあったけど、僕はそれを理解し、むしろ彼のその気ままさに、居心地の良さを感じていた。


 そんなある日、授業の一環として、とある課題が出された。それは、クラシックの音楽を自分たちのスタイルでアレンジするというものだった。先生は、僕たちにそれぞれの個性を尊重しながら、一つの作品として仕上げることを求めた。僕たちがくじ引きで割り当てられた楽曲は、ドビュッシーの「月の光」だ。


「お前と一緒に『月の光』か。なかなか面白そうじゃん」


 授業後、ジャックが僕に声をかけてきた。


「うん、きっといい作品になると思うよ。君のスタイルを活かして、僕がそれを補完できれば、素晴らしいアレンジができるはずさ」


 僕は少し興奮気味に答えた。


「なら、早速今日からやろうぜ。お前の部屋でいいか?」ジャックはニヤリと笑って言った。


 僕は一瞬戸惑った。寮の談話室で話すことはあっても、自室にジャックを招くことは、これまでになかったからだ。しかし、彼と一緒に過ごす時間が増えることは純粋に嬉しいことだ。共にモノづくりをするならば、深いコミュニケーションは欠かせない。


「いいよ。部屋を片付けておくよ。」


 ---


 その夜、僕はジャックを自分の部屋に招いた。寮の部屋は決して広くはなかったが、僕にとっては音楽に集中できる心地よい空間だった。電子ピアノと作曲用の机やパソコンが置かれ、音楽関係の書籍がずらりと並んでいる。僕の部屋は、音楽の歴史と共に生きてきたことを示しているようだった。


 ジャックは部屋に入ると、真っ先にピアノの前に座った。


「お前の部屋、落ち着いてるな。俺の部屋とは大違いだ」


「君の部屋はどんな感じなの?」


「ごちゃごちゃしてるよ。楽譜も本も散らかってるし、服もそこら辺に投げっぱなしだ。今度遊びに来いよ。」ジャックは笑いながら言った。


 僕は頷きながら、「それも楽しそうだね」と返した。彼の大雑把な性格は、僕にとって新鮮で、次第にそれが魅力的に感じられるようになっていた。


 ピアノの前に座ったジャックは、軽く「月の光」のテーマを弾き始めた。その指使いは相変わらず軽やかで、独自の感情が音に乗っている。


「やっぱり、君のタッチは、僕とは違うね。確かにドビュッシーの曲だけど、君の色が強く出てる。」


 僕は感心して言った。


「そりゃそうだろ。この俺が弾くんだからな。けど、実はこういう繊細な曲は苦手なんだよな。好き勝手引いたら、メチャクチャになりそうだ。お前がいなきゃバランス取れねえよ」


 ジャックはいつものように軽く冗談を交えて言ったが、その言葉には信頼が感じられた。


「じゃあ、僕の役割はバランスを取ることか」


「そういうことだ。俺が自由にやって、お前がそれをまとめる。それでいこうじゃねえか。」


 ジャックはピアノの前でニヤリと笑った。


 僕たちはしばらくの間、「月の光」をいじくりながら、いろいろなアレンジを試みた。ジャックはいつも通り大胆で、時には即興でジャズ風の音を加えてみたり、リズムを崩してみたりしていた。一方、僕は彼の提案に対して、メロディの美しさを守りながら、慎重に構成を整えていった。


 ジャックの自由さに触れると、僕自身の中にあった「完璧でなければならない」という固い思いが少しずつ解けていくようだ。音楽に触れる事が、ちっとも息苦しくない。むしろ、もっと積極的に色々試したくなる。自分の中に、こんなに沢山の好奇心や冒険心があるなんて、思ってもみなかった。


「さて、今日はこのくらいにしておくか。まさか、朝までやるつもりじゃないだろ?」


 調子が上がってきたタイミングで、ジャックが笑いながら言った。時計を見ると、すでに日付を跨いでいた。時が経つのを忘れるほど、僕たちは夢中で音楽に向き合っていたのだ。


「確かに、もう遅いから、続きはまた明日だね」


「じゃあ、明日は俺の部屋に来いよ。菓子でもつまみながら、もうちょっとリラックスしてやろうぜ」


 ジャックは立ち上がりながら提案した。


「わかった。じゃあ、明日は君の部屋で」


 ---


 翌日、授業が終わった後、僕は初めてジャックの部屋を訪れた。彼の言った通り、中はそれなりに散らかっていた。楽譜や服が床に無造作に放り出され、机の上にはエナジードリンクの空き缶や、友人に借りたであろう読みかけのコミックスが積まれている。それでも、彼の乱雑な部屋にはどこか居心地の良さがあった。


「ほら、適当に座れよ。あんまり片付いてねえけど」


 ジャックはベッドに腰を下ろし、僕にソファを勧めた。


「君らしい部屋だね」


 僕は壁一面に貼られたアーティストのポスターを見ながら言った。


「お前みたいに整った部屋じゃねえけど、俺にはこれが合ってるんだ」


 ジャックは気楽に言った。


 僕たちは再び「月の光」のアレンジに取り組み始めた。ジャックの部屋は、練習室や僕の部屋とはまた違ったリラックスした空気が流れていた。ジャックはピアノを弾く合間に冗談を飛ばし、僕もそれに笑って答えた。彼といる時間は、なんだか幼い頃に戻ったような、純粋な楽しさだけが詰まっている。


 アレンジを進めながら、僕は彼のことをもっと知りたいと思うようになっていた。彼の自由な演奏スタイルはもちろん、彼が音楽に対して抱く感情や、彼が背負っているもの。過去、それらすべてが、僕にとって興味深く、心惹かれるものだった。


「ねえ、ジャック。君のそのタトゥーは何が刻んであるの?」


 彼のシャツから覗く首筋のものや、袖をまくった際に見えるタトゥーは文字のような物もあれば、トライバルなんかの抽象的なモチーフもあり、多種多様だ。


「ああ、これな。彫り師のおっちゃんがバーの常連でさ。最初はオシャレで入れてもらったんだけど、今は自分の好きな曲の歌詞とか、モチーフ入れてんだ」そう言って、彼は自分のタトゥーを一つずつ愛おしそうになぞった。


 よく見ると歌詞といってもラテン語やギリシャ語と、言語は様々あるようだ。自由を象徴するであろう翼や鳥が多いのも、何かの曲のモチーフなのかも知れない。


「好きなものとか、こう在りたい…みたいなのを忘れねえように刻んでんだ。ちなみに1番のお気に入りはこれ」


 彼は徐にシャツを脱いで、背中を見せた。そこには肩から背中にかけて、美しい不死鳥が翼を広げていた。


「これは"俺の音楽は死なねえ"って意味!」


 そう得意げにポーズをとるジャックを見て、僕はなんだかおかしくて笑い出してしまった。


「ははっ、君らしくて素敵だね。けど、タトゥーって痛そうだな」


「お前って、ホント真面目だよな。ピアスとまで行かなくても、なんかオシャレしてみたらいいんじゃねえの。ファッションも、自分らしさを表現する手段だぜ」


「だとしたら、僕はこれが一番落ち着くんだ」


 僕は苦笑いを浮かべた。必要以上に肌を見せず、折り目正しく制服を身に纏うことが、僕にとっては自分らしさだった。一種の戦闘スタイルと言ってもいい。


 完璧を追求する僕の性格は、コンプレックスでもあったが、間違いなくジャックにはないものでもあり、自分らしさでもあると感じていた。


「まあ、大胆になりたくなったら、俺を呼べよ。いつでも付き合ってやっから」


 ジャックはニヤリと笑い、僕の肩を軽く叩いた。


「それじゃあ、今度、買い物にでも付き合ってもらおうかな」


「お、いいな。俺がコーディネートして、優等生様をイメチェンさせてやるよ」


 そう言ってジャックは楽譜ではなく、ファッション誌や画像の検索を始めてしまった。以前の僕なら、真面目に課題に取り組もうよ、と諭していたかもしれない。けれど、今は一見無駄にも思える脱線や寄り道が、とても楽しい。そういった時間が、僕の音楽に豊かさと遊び心をもたらしてくれているんだ。


 ジャックの音楽が、言葉が、共に過ごす時間が、僕を徐々に変えていっていることに、彼は気づいているのだろうか。


 ---


 それからしばらく、僕たちは寮の部屋を行き来し、時には二人で外に出かけて寄り道や脱線を繰り返しながら、アレンジを続けていった。次第に、ジャックは、彼が抱える悩みや苦労、プライベートな過去のことなんかを打ち明けてくれることがあった。


 親はいなくて、施設で育ったこと、それでも施設の人たちには、愛されて育ったこと、動画で見たピアノを、見よう見まねで弾き始めたこと、良くしてくれるアルバイト先の人たちのこと、バーに訪れる面白い常連客についてなんかも。


 そんな事を話していると、ふと会話が途切れた。静かな時間が流れ、窓の外には月がぼんやりと輝いていた。


「月の光ってさ、太陽みたいに明るくは無いけど、どっか心強いよな」


 ジャックがぼそっとつぶやいた。


「うん、穏やかで優しい光だけど、夜の寂しさを感じさせないね」


 僕は彼の言葉に同意しながら、窓の外を見つめた。


 ジャックは僕の方に向き直り、沁みじみと言った。


「最近さ、お前といると、楽しいし、なんか落ち着くんだよな。ずっと前からダチだったみてえな、変な感じ」


 いつもと違う大人びたトーンに僕は驚いた。ジャックは元々、人との距離が近く、気持ちを素直に言葉にする人間ではあったが、真剣なトーンで言われると照れるものがある。


「ぼ、僕も同じだよ、ジャック。君と一緒にいると、なんだか心が軽くなるんだ」


 僕もそれに素直に返す。はぐらかしたところで、見透かされると思ったんだ。


「お前が同じ様に感じてくれるなんて。嬉しいよ。俺の嬉しいや楽しいが、お前と一緒だったらいいのにな」


 その大人びた微笑みに、なぜか胸がドキドキして、突然、呼吸の仕方を忘れてしまったような感覚になる。近頃の僕はなんだかおかしい。彼との距離に心地よさを感じると同時に、得体の知れない不安感があって、少しだけ胸が苦しいんだ。


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 その後も、互いの部屋で過ごす時間が増えるにつれ、僕は自分が彼に惹かれている事を自覚せざるを得なかった。このところ四六時中彼のことばかりを考えている。音楽よりもずっと長い時間、彼のことが浮かんでくる。時に授業が上の空になるほどに。メッセージの返事がないだけで、こんなにも不安になってしまうだなんて、クラスの女子たちが話しているようなことが、まさか自分の身に降りかかるとは思ってもみなかった。


 この気持ちが恋でないなら、なんだというのだろう。しかし、男同士という事に全く抵抗がないわけではない。もしかしたら、尊敬の念を勘違いしているだけかもしれない。


 そんな風に、心の中が矛盾や落差でぐちゃぐちゃになって、彼の態度や言動、些細なことで一喜一憂することになった。


 それでも、残酷な事に時は過ぎて行き、ある夜、僕たちはついに納得のいくアレンジを完成させた。ジャックが弾いた即興のフレーズと、僕が緻密に考えたメロディが一つになり、ドビュッシーの「月の光」は僕たちだけの特別な音楽となった。


 それはまるで、二人の青年が、孤独な夜を分かち合うような、秘め事のような曲へと昇華したのだ。


 ピアノの前で僕たちは顔を見合わせ、自然と抱きしめあった。僕は彼と音楽を作る喜びを感じ、互いがいることの幸福を実感しあっていた。


「ようやく完成だな」


「うん、最高の作品だよ」


 僕は彼に微笑み返しながら答えた。


 月の光がぼんやりと僕たち二人を照らしていた。

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