第3話
あれから数日、僕とジャックの関係は少しだけ変化した。相変わらず、授業中に言葉を交わすことはなかったけど、練習室では顔を合わせることが増えた。ジャックはいつも通り、自由で豪快な演奏をしていたし、僕はその技術に尊敬の念を抱きつつ、正統派の美しさを演奏の中で主張した。彼の奔放なスタイルと、僕の完璧を追求するスタイルは、まるで正反対だけど、それがむしろ僕たちの関係を面白いものにしていった。
僕たち二人は、ライバルとして、競い合うように互いを高めあった。それは、直接言葉を交わす以上に、互いの本質を知れるものだったかもしれない。なんだか、文通仲間を得た様な、不思議な繋がりさえ感じる。
ある日の午後、僕はいつものように練習室でピアノを弾いていた。最近は鍵盤に触れるたびに、内側から音楽があふれ出すような感覚を覚えている。ジャックと話して以来、僕は少しずつ音楽を「楽しむ」ことを意識するようになった。それはまるで会話のようなもので、彼に伝えたいことが、音として、インスピレーションとして湧き出てくるんだ。
「こんな演奏ならどうだ!」「君はどう答える?」「僕はこう解釈したよ」と、音楽という言語を通じて、互いをぶつけ合えるのは、実に充実した時間だった。
今日あった面白い出来事や、常々抱えている胸の内を音楽に乗せても、彼なら繊細に感じ取ってくれるだろうか。彼と直接話してみたいことが沢山あるけど、プライベートに踏み込みすぎるのは失礼だろうか、と。想いが巡るたび、音が揺らいだ。
その日は結局、夢中であれこれとアイデアを形にしながら、夕方までピアノを弾いていた。夕食の時間が近づいてきたので、そろそろ寮に戻ろうかと思い、ピアノの蓋を閉じようとしたときだった。
「いい加減、目障りなんだよ!」
廊下の方から、怒鳴り声のようなものが聞こえてきた。何事かと思い、耳を澄ますと、何人かの生徒たちが口論しているようだった。僕は普段、他人の問題に首を突っ込むことはしないが、その声には聞き覚えがあった。
「うるせえな。アンタらには関係ないだろ」
「関係あるさ、歴史あるセレスティアル音楽院の恥晒しめ。よくもあんな粗末な演奏を配信になんて乗せられるなあ」
「そもそも何だよその格好。音楽家ってより、ヤクの売人みたいじゃねえか」
「君みたいなのが特待生なんて、不思議で仕方ないよ。金のない君のことだ、教師を脅したか、教師とヤッたか、どっちだ?」
僕はその瞬間、誰が絡まれているのか悟った。ジャックだ。彼の外見や自由奔放な性格は、大多数の人間が受け入れてはいたが、一方で保守的な生徒たちには好ましく思われていなかった。それでも、ジャックはいつも気にせず堂々としていた。しかし、その堂々とした態度が、ついに上級生たちを刺激してしまったようだ。
僕はピアノから立ち上がり、廊下に向かった。すぐに声の主たちが見えた。廊下の端、ジャックが壁際に追いやられていた。彼の前には、三人の生徒が立ちふさがり、彼を取り囲んでいる。彼らは、いかにも良家の出身という感じの、整った服装だ。僕も見覚えがある先輩たちだ。常に成績上位で、コンクール入賞経験もあるような、先生からの信頼も厚い連中だった。
「どうしたんですか?」と、僕は思わず声を上げた。
三人の生徒は一斉にこちらを向いた。僕が来ることを予想していなかったのだろう。少し驚いた表情を見せたが、すぐにその表情は冷たくなった。
「なんだ、グレイソンか」
リーダー格の先輩が僕に声をかけた。
「なあに、この不良野郎が、セレスティアル音楽院の特待生というのが、気に食わないだけだよ」
「不良?」
僕は彼らの言葉に、心底腹が立った。
「なあ、グレイソン、君もコイツに言ってやれよ。ここはエリートが集まる場所で、お前のような教養のない貧乏人が来ていい場所じゃないってさ」
他の先輩たちもつられてケラケラ笑い出す。ジャックは確かに見た目は粗野かもしれないが、音楽に対する情熱は誰にも劣らない。ましてや、こんな卑劣な言葉を浴びせられるような人間ではなかった。
「確かに、ジャックにはクラシックの教養が無いかも知れません。けど、それを学ぶために、この学院があるのではないんですか?それに、ジャックがどんな格好をしていようと、音楽家であることに変わりはありません。先輩は、彼の演奏をちゃんと聞いたことがありますか?彼の音楽を理解しようとしたことは?」
僕は冷静に言葉を選びながら、彼らに問いかけた。
「音楽?こいつのは音楽じゃない、ただの下品な雑音だ」
リーダー格の先輩が嘲笑するように言った。
「僕たちが学んでいるのはクラシックだ。こんな下品なやつが、同じ学校にいるなんて耐えられないよ」
僕は彼らの言葉を聞いて、拳を握りしめた。確かに、ジャックの演奏は伝統的なクラシックとは一線を画しているかもしれない。だが、それが彼の音楽を否定する理由にはならない。
「音楽にルールはないでしょう?」僕はそう言い切った。
「僕たちが学んでいるクラシックは、確かに伝統的な芸術で、敬意を払うべきものだ。でも、音楽は感情を…時に自分自身を表現するものじゃないんですか?アプローチ方法が違うだけで、彼の音楽が間違っているわけじゃない!」
その言葉に、一瞬彼らは言葉を失った。僕は構わず続けた。
「ジャックは、自分のやり方で音楽を表現しています。それは、先輩たちが学んでいる音楽と、同じくらい価値のあるものです。彼の服装や態度は、彼の音楽を否定する理由にはなりません…!」
その瞬間、ジャックが小さく笑ったのが聞こえた。
「お前、そんなこと言えるんだな」
僕はそれを聞いて、軽く微笑んだ。
「大丈夫。君の音楽には価値がある。僕はそれを知っているよ」
僕の言葉に、先輩たちは困惑した様子で互いに顔を見合わせたが、やがてリーダー格の生徒が肩をすくめ、「もういい、行くぞ」と言って去っていった。残りの二人もそれに従い、廊下は静かになった。
僕は彼らが立ち去るのを睨みつけた後、ジャックの方を向いた。彼は壁にもたれかかり、少し疲れた表情をしていたが、その目には感謝の色が浮かんでいた。
「お前が俺を庇うなんて、思ってもみなかったよ。優等生」
ジャックは皮肉っぽく笑いながら言ったが、その声はどこか優しかった。
「彼らの言っていることが気に食わなかったから、反論したまでだよ」
僕は静かに答えた。
ジャックは一瞬黙り込んでから、ため息をついた。
「ま、あいつらみたいな連中に絡まれるのは、しょっちゅうさ。俺は別に気にしねえけど、お前がああ言ってくれたのは嬉しいな」
「嬉しい?」僕は少し笑った。
「ああ、お前は、その…どっちかっていうと、エリート側、だしな」
「僕はエリートなんかじゃないさ。ただの未熟者だよ。日々、君から多くのことを学んでいる」
ジャックは驚いた顔をしたが、すぐにまた笑った。
「そっか…俺みたいな奴から学ぶことがあるのか。お前がそう言ってくれるなら、安心したよ」
僕は頷いた。ジャックとの間には、以前にはなかった不思議な絆が生まれていた。それは音楽を通じて築かれたものだけでなく、互いに抱える苦悩や孤独を理解し合った結果だった。
「それにしても、お前、勇気あるな。先輩を相手に、あそこまで言うとは思わなかったぜ。ちょっと、スカッとしたわ」
「君も黙っていないで、反論したらよかったじゃないか。何も、あそこまで言われる筋合いは無いよ。誰に否定されても、君の音楽には価値がある」
僕は真っ直ぐにそう答えた。
ジャックは笑いながら僕の肩を叩いた。
「そっか、そっか。ありがとな、アレク。お前みたいな奴がいてくれるなら、この学校も悪くないかもな」
その瞬間、僕は彼と深いところで繋がった気がした。音楽の道は孤独なものだと思っていたけど、ジャックという存在が、僕に新しい視点を与えてくれたのだ。
「なあ、今度、何か一緒に演奏してみないか」
ジャックが気恥ずかしそうに提案した。
「もちろん。君となら、きっと素晴らしい音楽が生まれると思う」
その日から、僕たちの間には、ライバル関係とは違う特別な絆が生まれていた。
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