第2話

 セレスティアル音楽院に入学して一か月が経ったが、僕はまだこの環境に馴染めずにいた。名門校として知られるこの場所は、生徒全員が天才のようで、どの授業でも目が回るほどの緊張感が漂っている。先生たちは厳格で、少しのミスや甘えも見逃してはくれない。


 今までも家庭教師をつけ、最高の教育を受け、常に「天才」と称賛されてきた僕にとって、完璧を求められることは当たり前だった。でも、この学校では、それに応えるだけでは不十分だと感じる。特に、あの男──ジャック・イグレシアスの存在が、僕の心をかき乱していた。


 ジャックは見た目からして、僕とは正反対だ。制服をラフに着崩し、無数のタトゥーやピアスを身につけ、先生たちからの評価は厳しく、注意を受けることもしばしばだ。それでも、ジャックは生徒たちの間では人気者だった。彼の周りにはいつも友人がいて、何かと人を惹きつける魅力がある。彼の演奏もまた独特で、自由奔放で遊び心満載だ。クラシックの曲でも、どこかジャズや即興のエッセンスを感じさせる。彼の演奏には、僕にはない解釈があった。


 だからこそ、僕は彼の才能に嫉妬し、距離を置いていたのかもしれない。入学試験の演奏を見て、周りが執拗に二人をライバルだと囃し立てたのもあった。彼とじっくり話をしてみたら、何か違ったかも知れない。けれど、この一か月、互いに、どこか一線を引いたままで、同じクラスにいても、まるで水と油のように交わることがなかった。


 遠巻きに彼の様子をながめ、その差を思い知らされる日々。僕の気持ちはどんどん焦っていった。グレイソン家の人間として期待を背負い、優等生のように振る舞ってはいるが、次第に技術の方が追いつかなくなっている。このままでは、いつ落第するかわからない。恐れが、不安が、僕の音を、表現を凍り付かせていく。


 一方のジャックは、クラシックの教養がない分、未熟で、未完成で、未来がある。まだまだ伸び代があって、天井などないように見えるその態度が、僕には眩しい。


 ---


 ある夜、僕は一人で練習室に残っていた。とても寮に戻る気分ではなかった。今日の授業でくだらないミスを連発してしまい、どうしてもそのミスを回収したくて、何度も同じフレーズを繰り返した。鍵盤を叩く指先が思うように動かず、苛立ちが募る。


「こんなんじゃダメだ…どうしてうまくいかないんだ!」


 頭の中で何度も自分を責めながら、もう一度鍵盤に指を置いた。心を落ち着け、深呼吸をして弾き始めたが、やはりどこか不満が残る。


「くそう!」


 その気持ちを乱暴に鍵盤に叩きつけると、ダーン!と強烈な不協和音が鳴り響いた。


「ちと、焦りすぎなんじゃないか?」


 突然背後から声がした。驚いて振り返ると、そこにはジャックが立っていた。彼の方こそ、目の下に隈を作り、ややぼんやりした目をしている。普段のような快活な笑顔は見られない。


「君こそ、こんな時間まで練習を?」


 僕は少し戸惑いながら、背中越しに声をかけた。


「まあな、今日は、バーが休みだからさ」


 ジャックは軽く肩をすくめながら、練習室の壁に寄りかかった。


「バー?君、バーで働いているのか?」


 僕は思わず彼の方を振り向いた。ジャックがそんな場所で働いているなんて、初耳だった。


 彼は一瞬表情を曇らせ、少し笑った。


「ああ、みんなには内緒な。俺、親がいないから、生活費とか色々、自分でなんとかしなきゃならねえんだよ」


 僕は驚いた。自由で、どこまでもいけそうな彼が、そんなに大変な生活をしているとは思ってもみなかった。僕は家からの援助があるので、生活費の心配をしたことはない。グレイソン家は音楽一家で、幼少期から最高峰の環境与えられ、何の疑いもなく音楽に打ち込んできた。でも、彼はまったく違う世界に生きていたのだ。


「そんな生活をしているなんて、全然知らなかった…」


 僕は思わず口に出した。


「そりゃそうだ。わざわざ、苦労してます、なんて言う必要ねえし」


 ジャックは軽く笑い、少し疲れた表情を浮かべた。


「夜のバーでピアノ弾いて、客を喜ばせて金を稼ぐ。俺が生きてくには、それしかねえんだ」


 僕は彼の言葉を聞いて、何も返せなかった。自分がどれほど恵まれていたのか、そしてジャックがどれほど苦労しているのかを、思い知ってしまった。


 生まれの差は、一見すると僕の方が有利に見えるだろう。それなのに、彼は、自分の生まれを呪うどころか、生きることを心から楽しみ、いつも明るい場所にいるように見えた。もしかしたら、それらは全て、彼が巧妙に、隠していたものなのかも知れない。それとも、受け入れて、乗り越えたものだったのだろうか。


「大変、だったんだね」


 絞り出した答えに、ジャックは苦笑する。


「ははっ、大変ってことはねえよ。この生活が、俺にとっては当たり前だったし。むしろ、ここに来た方が、色々と大変…かもな」


「君は、どうして、この学園に来たんだい?」


「あー、なんか、スカウト? 入学試験、いい成績だったら、学費免除でいいって聞いて…タダで勉強できんなら、いいかなって」


 一度、言葉を紡ぎ出したら、もう止まらなかった。彼への興味から、次々に質問を飛ばしてしまう。


「ねえ、君の奔放さは、先生から厳しい評価を受けているけど…生徒たちには人気があるよね。どうして?」


 僕は思い切って、気になっていたことを聞いてみた。


 ジャックは、一瞬、ポカンとした顔をしたが、やがていつものように笑って言った。


「俺は先生たちの評価は、あんま、気にしてないんだ。あの人たちには、俺の演奏が理解できねえみたいだし。俺は純粋に音楽を楽しみたい。もっと上手くなりたいと思ってここに来た。俺の演奏を聞くやつが、自由に楽しんでくれたらいい。クラスの奴らは俺のそういうところ、分かってくれてんだ」


「自由に楽しむ…か。」


 僕はその言葉に引っかかりを覚えた。僕は常に正しさを求めて演奏していた。先生たちの評価に応え、完璧こそが美しさだと、それを追い求めることが大切だと思っていた。ジャックの言う「自由さ」は僕にないものだった。


「君は今日みたいにバーが休みの日もずっと練習に打ち込んでいるの?時々遅くまで残っているのを見かけるけど」


 ジャックは少し照れくさそうに頭をかいた。


「まあ、バーが休みの日は、ここで練習することが多いかな。自主練がてら、動画配信もしてるんだ。リクエストに応えたりしながら、テキトーに弾いてるだけだけどな」


「動画配信?」


 僕は目を見張った。それもまた意外だった。彼がそんな活動をしているなんて、まったく想像していなかった。


「ああ、自分の音楽を世界にシェアするのって、楽しいだろ?聞いてくれる人がいるってだけで、モチベーションになるしよ」


 ジャックはそう言って、配信のアーカイブを見せてくれた。


「ま、そんなに金にはならねえけど、俺には音楽が必要だから」


 僕は彼の言葉に、どこか羨ましさを感じた。僕が常に完璧さや正しさを追い求めているのに対し、ジャックは音楽そのものを楽しんでいた。音楽が彼にとっては純粋な喜びであり、生きるための力になっている。それは、僕が失いつつある感覚かもしれなかった。


「君は…本当に自由で、音楽が大好きなんだね」


「まあな、気ままに弾くのが好きなんだ。間違えても気にしない。ミスだって一つの表現さ」


 ジャックは冗談めかして言ったが、その言葉は僕に強く響いた。


「僕は、いつもミスを恐れている。少しのミスでも、それがずっと気になってしまうんだ。音楽のことは好きだけれど、それが時々、枷のように感じることもある」


 気がついたら、他の誰にも話したことがない、素直な気持ちを打ち明けていた。


「なんか、息苦しそうだな。完璧主義はお前の良いところでもあるんだろうけど、たまには力抜けよ。音楽は楽しむもんだろ?」


 ジャックはそう言って、僕に向かって笑った。


 その笑顔は、不思議なくらい、温かく感じられた。僕は彼に嫉妬して遠ざけていたのに、そんな彼は僕に敵意を向けるどころか、友好的で、いつも敬意を示してくれる。僕は、自分にはないものを持っている彼に、惹かれてもいたんだ。音楽を楽しむこと、自由に表現すること…それは、幼かった頃には確かにあったけど、今の僕が失いつつある大切なものだった。


 その夜、僕たちは寮に戻ることなく、練習室で静かに時間を共有した。ジャックはソファに腰をかけ、僕の演奏を黙って聞いていた。いつもの張り詰めたものとは違う、穏やかな夜。彼と話すことで、僕の心は軽くなり、凍りついた音は春の雪解けのように、少しずつ元の流れを取り戻しつつある。


「ありがとう、ジャック」と、僕は、演奏しながら、つぶやいた。


 ジャックは笑いながら「なんだよ、突然」と返したが、その目は照れつつも、優しかったように思う。

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