本編

第1話

 緊張感に満ちた音楽ホールで、僕は幼い頃から慣れ親しんだグランドピアノの前に座っていた。裕福な音楽一家に生まれ、最高級のピアノで練習する機会に恵まれていた僕にとって、音楽は生活の一部であり、気持ちを伝えるための手段の一つだ。4歳で初めてピアノを弾いていたあの頃から、伝統ある大きなホールで演奏するのが夢だった。


 セプタイル王国の文化と伝統を誇るセレスティアル音楽院では、毎年恒例の厳正な入学試験が行われていた。


 会場は緊張で静まり返っていたが、僕の心は比較的穏やかだった。家族から受け継いだ品位を保ちながら、静かに自分の番を待った。


 僕の前に演奏するのはジャック・イグレシアスという青年だ。正装に身を包んでいるものの、健康的に焼けた肌に、スポーティに刈り上げられた黒髪、耳に光る無数のピアス、シャツから覗く首筋のタトゥーが異質さを放つ。ピアニストというより、ヒップホップをやっていると言われた方がしっくりくる。彼の名前はウワサ程度に耳にしていたが、演奏を聴くのはこれが初めてだった。


 ジャックはステージに上がると礼もせず、すぐに演奏を始めた。彼が選んだ曲は、奇しくも僕と同じ、ベートーヴェンのピアノソナタ第23番ヘ短調 作品57「熱情」第1楽章だ。この曲は、ベートーヴェンの代表的なピアノソナタで、感情の振れ幅がかなり大きく、力強さと繊細さの両方が求められ、技術と感情表現のバランスが問われる難曲だ。


 ジャックの演奏は、最初、とても奇妙に感じられた。どこのコンテストでも聞いたことがないような制約のない自由な表現。それはストリートで培われた独自のスタイルが光るものだった。野生的なエネルギーに満ち、その情熱的で即興的な演奏は、まるでジャズクラブのセッションだ。


 ジャックの指が鍵盤を叩くたびに、会場はその自由なリズムに乗せられていく。彼の演奏は、純粋な生への喜びを音に変えていた。それは計算し尽くされた僕の演奏スタイルとは正反対で、彼の音楽には新鮮で予測不能な魅力があった。


「……なんて楽しそうに弾くんだろう」


 僕は思わず呟いた。彼の演奏はジャズクラブで嗜むアルコールそのものだ。僕はまだ未成年だから、実際に酒を飲んだことはないけれど、審査員たちを含め、会場中が彼の繰り出す音に酔いしれている。心地よく美酒に酔うとは、きっとこんな感じに違いない。


 しばらくして、微かな余韻と共に音が止む。一瞬の静けさが訪れ、その後で暖かい拍手や口笛がヴィクトリア・ホールに響き渡った。ジャックは満足げな笑みを浮かべると、観客席に手を振りながら舞台袖に戻ってきた。そして、挑戦的ながらも友好的な視線を僕に向けた。


「お前も俺の演奏に負けないようにな」


 そう言って慣れたようにウィンクを一つ。彼の言葉には軽い冗談が含まれていたが、不思議と嫌な感じはしなかった。その瞳は真剣そのもので、僕のことをバカにしたり、見下しているのではなく、純粋に演奏への期待が込められていた。


 僕は彼の挑戦を受け、穏やかに微笑みながらステージに向かった。ピアノの前に座り、深呼吸を一つ。これから始まる僕の演奏には、音楽に愛されている家族が築いた伝統と、僕自身が育んできた芸術への敬意が込められている。


 一音目。慎重ながら順調な滑り出しだ。コンディションは良さそうだ。僕のピアノは、静かで、繊細で、計算され尽くした美しさを持っている。それぞれの音符が空間に溶け込み、純粋で瑞々しい感情を紡ぎ出す。ジャックのそれとは対照的に、僕の音楽は熱を帯びながらも詩的な物語を観客たちに語りかけていく。


 同じ曲でこうも解釈が変わるのかと思った。きっと審査員や観客たちも、同じことを思ったはずだ。


 最後の一音まで気は抜かない。音が消えきる、その瞬間までが僕の表現だ。無事にノーミスで引き終える事が出来た僕は、跳ね上がる心臓の鼓動を感じながらも、呼吸を整えて、礼儀正しく一礼する。


 温かい拍手を受けながら舞台袖に引っ込むと、ジャックが友好的な笑みを讃え、馴れ馴れしくも肩を組んできた。


「ヒュー。やるじゃん。俺、お前の演奏好きだぜ。なんか物語を感じた。そんで、確信がある。お前も、俺の演奏が好きなはずだ」


 彼はそう言って、またも愛嬌たっぷりにウィンクしてみせた。その自信は、一体どこから来るのだろう。けど、ここで素直に彼の演奏を認めるのも癪だったので、僕はあえて回りくどい言い回しをした。


「そうだね。君の演奏は乱暴だけど、確かに真新しさは感じたよ」


 僕の挑発的な態度に、彼は嫌な顔をするどころか、むしろケラケラと愉快そうに笑っていた。そして、熱を帯びた挑発的な眼差しをこちらに向ける。


「いつかその口から、俺の演奏が好きだって言わせてやるよ」


 そう言って、彼は酩酊感に似た余韻を残し、窮屈そうだった蝶ネクタイを緩めながら、舞台を去っていった。


 僕たちの音楽へのアプローチは正反対だ。だが、この短いやり取りの中で、互いへの深い尊敬と興味が沸き起こったことは確かだった。


 そして、これからの学校生活を通じて、どんな影響を与え合うのか、その可能性に胸が躍る自分がいた。


 後に、この入学試験は伝説的に語り継がれる事になる。ジャック・イグレシアスと、僕ことアレクサンダー・グレイソンは、セレスティアル音楽院きっての天才、ライバル同士として、もてはやされる事になるのだった。

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