第7話
ルナ、ルナ、と私を呼ぶ声がしました。
なんだか、とても懐かしい声でした。
アルドリックさんのしゃがれた声とは違い、幼い、女の子の声でした。
私も幼い女の子なのですけれど、私よりもっとキュートな、庇護欲を掻き立てられるような、そんな声がしました。
私はその声で目を覚ましました。
目を覚ましたことで、私は今まで眠っていたのだということに気がつきました。
しかし、いつの間に眠ってしまっていたのでしょうか。
今まで何をしていたのか思い出そうとしても、てんで思い出せません。
頭の中にまるで、靄がかかってしまったかのようです。
誰かが思い出さないように抑えこんでいるとすら思えるほど濃い靄なのです。
と、それに、ここは一体どこでしょうか。
見渡す限りの光。
決して眩しくはないのですが、幻想的で、幻惑的な光が、満ちているのです。
かろうじて足の踏み場はあるようですが、どこから落ちるのかたまったものではありません。
足場、という表現すら適切では無いのかもしれません。
私の感覚としては、浮遊感はないのですが、宙に浮き、尚且つ、光の上に立っているのです。
影一つない空間にに私は立っているのです。
……影一つ、ない?
何かおかしい気がします。
たとえ、全方位から光を当てられたとして、影一つくらいはできるのではないでしょうか。
もっとも、全く同じ強さの光だったらその限りではないのかもしれませんが、どうも私には、影がないという現状に、論理的にも、直感的にもおかしく思えて仕方がないのです。
おかしいな、おかしいなと、頭を捻り、ついに私は真実に辿り着きました。
私はそれに気づいた時、可笑しくて、声を漏らしそうになりました。
あまりに簡単で、あまりに自明。
影一つないのは、当たり前だったのです。
だって、私の身体が、ないのですから。
より正確に言えば、五感は全て残されていますが、身体の実体がないのです。
ただ見えない、というわけではなく、存在しないのです。
身体を触ろうとしても、触ることはできず、ただ空を切った感覚だけが、掌に残るのみ。
辺りの景色見えているのに、目は無い。とても不思議な感覚です。
私がその感覚を好奇心に任せて楽しんでいると、再び、ルナ、ルナと、私を呼ぶ声がしました。
私は楽しみを邪魔されて、少し不機嫌になりました。その原因の声が発せられた場所を探しますが、辺りは、やはり影一つない光に満ちています。
私は、だんだんと身体の底から、苛立ちが沸々と湧き上がってくるのを感じました。もっとも、湧き上がる身体はないのですけれど。
——だれなの!私を呼んでるのは!
私は虚空に向かって、そう言い放ちました。
もちろん、口はないのですけれど、声は発することができました。
この空間はどこまで続いているのでしょうか、私の声はただ一方向的に進むだけで、帰ってくることはありません。
しかし、遥か彼方まで飛んで行った私の声を拾った、それ、は私の目の前に現れました。
光だけの空間に現れた真っ黒な点。
極めて黒く、この空間において、全くの異質。
異物。
不愉快。
全身の毛が一気に逆立ち、生物としての勘が、それ、を徹底的に否定する。
こいつは、ダメだ。
存在してはいけない何かだ。
そう思った途端、光の空間は、世界は、反転しました。
完全なる黒。
圧倒的な暗闇。
かつて、光だったそこは、反転し、暗闇へと変貌しました。
私が見た黒点は、この空間に馴染み、同化し、もう視認することができません。
私はどうにか逃げようと、右も左も、前も後ろも、上も下もわからないまま、存在しない足を動かし始めました。
あれ、に捕まったら何もかもが終わる。
だから、私は、逃げました。
逃げて、逃げて、逃げました。
でも、私は、本当に逃げた、のでしょうか。
足を動かしているのですが、その場から一歩も動いていないような気がするのです。
景色が動いていないから、そう思っているだけかもしれませんが、なんだか、それ以前に、足すら動いていないような気もするのです。
動かしているのに、動いていない。
矛盾しています。
が、それ、は、それを真実として私に強制するのです。
無意味。
それ、は私にそう告げるように、私の耳元で囁きました。
——今度こそ、私を殺して。
その言葉に、私の耳が、鼓膜が震えた瞬間、私の胸に一筋の光が、差しました。
暗闇の世界に、一筋の希望の光が、絶望の死の光が、私の胸を貫きました。
痛みはない。
というより、すべての感覚がない。
私はその場に仰向けに倒れ込みました。
なんて、綺麗なんだろう。
私は、そこに夜空を見ました。
暗闇に散りばめられた、宝石たち。
そして、親分のように、大きな満月が浮んでおり、その柔らかな銀色の光は私を優しく照らしていました。
私は以前、母に私の名前の由来を訊きました。母は言いました。
——ルナは、月の女神様なのよ。夜は寝てしまう太陽の代わりに、みんなを照らすの。
私は、今、目の前の月を前に思います。
そんな大役、私には荷が重い、と。
私はこんなにも美しい光で、みんなを照らすことはできません。
私が、全身から力を抜いた瞬間、懐かしい匂いが鼻腔をくすぐりました。
嗚呼、懐かしき、血の匂い。
ルナ・ブライトウェルの手記より。
その少女、聡明につき あべのおくば @abennookuba
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