第5話
あれから、数日が経ちました。
洞穴の中は未だ薄暗く、アルドリックさんが作ってくれた料理の器がいくつか残され、腐敗した匂いが充満しています。
器の中には蛆虫さんたちが沸いており、生きるために必死に中身を食らっていました。
生きて、成長して、子供を産んで、命を紡ぐために。
アルドリックさんはというと、頻繁に洞穴の外に出かけては、食材を取ってきたり、川から飲み水を汲んできたりしていました。
私を気遣って、なのでしょう。
たくさん話しかけてくれました。
ご飯も作ってくれました。
でも、私はそれに応える気力も、生きる気もなかったのです。
泣き腫らした瞼はまだ少し痛みますが、その他は、至って私の身体はいたって健康でした。
心以外は。
あれから私は、洞穴の中で寝腐っていました。
私のせいで村のみんなが、母が死んでしまった。
その事実が、私の全身にずんと重くのしかかり、私をこの洞穴の土に縛り付けるのです。
縛り付け、拘束し、もう何もするなと強制するのです。
違う、私が殺したんじゃない。
わかっています。
直接手を下したのは私ではない。
わかっています。
でも、母が死に至ったのは、紛れもなく、私のせいなのです。
その因果を断ち切れぬ限り、私はここから動けないのです。
それでも、人間の身体というのはとても頑丈で、私のことをなかなか殺してはくれません。
アルドリックさんの用意してくれた食事を私の本能は、食らってしまうのです。
本当は食べたくなんかない。このまま死んでしまいたいと、そう思っているのに。
私の心は生きろ生きろと、死ね死ねと相反する感情が交錯し、ぐちゃぐちゃになって、もう抱えきれなくなっていました。
だから、寝腐っている間、私を励ましてくれるこの声たちは、私の心が魅せる幻聴であると、思っていたのです。
——ルナ、元気出して
元気、元気はある。
生きているから。
でも、死んでいないだけ。
生きているだけ。
生きるつもりもない。
だって、私が殺したのだ。
村のみんなを、母を炭に変えたのは、私なのだから。
——ルナは、悪くないよ
いいや、私は悪い子だ。
母の言っていることを理解しようともせず、ただ自分が気に食わないからという理由で、森に逃げた。
空を飛ぶ回答から逃げたのは、母ではなく、私だった。
空を飛びたいなどと、到底不可能な願いを自分勝手に妄想し、押し付け、喚き散らした。
その結果がこれだ。
私がもっと大人だったら、私が空を飛びたいなどと思わなかったら、きっと、今も私は、母の笑顔を見られたはずなのだ。
——だから、全部私のせいなんだよ!
私は、仰向けに寝転びながら、両手で地面を叩きつけました。
何かが洞穴の外に逃げていく足音がしました。
もう、なんの声も聞こえません。
——ルナ、起きていたか
もっとも、声で誰なのか分かっていましたが、一応、声が聞こえた方を確認すると、洞穴の入口に屈んで入る、アルドリックさんの姿がありました。
手には焚き火用の木材と、いくつか食糧を抱えていました。
アルドリックさんは、石で囲んだだけの焚き火台に木材を雑に置き、木の実や魚などの食糧を、汚れないよう、大きめの木の葉を石の上に敷いて、置きました。
して、そのまま火をつけるのかと、思いましたが、アルドリックさんは、私の方に歩いてきました。
——いつまでそうしているつもりかね。
厳しいお言葉が飛んできました。
それもそのはずです。
この数日間、私は、アルドリックさんの言葉に全く応じず、作ってくれたご飯も少しは食べましたが、ほとんど残したままという始末。
それで不貞寝を決め込んでいるのですから、アルドリックさんには何の非もないのです。
極めて正論、極めて大人。
だからこそ、私はそれが嫌で嫌で仕方がなかったのだと思います。
——私だって、したくてしてるわけじゃない……
極めて子供な返答を私はしました。
アルドリックさんはその言葉を聞くと、一息吸って、ふん、と息を吐き、私の横に胡座をかいて座りました。
——わしはあの時言うたはずじゃ、生きるのならば、食えと。その様子じゃと、生きるのは諦めたのかのう。
大変意地悪なことをアルドリックさんは言いました。
なんて酷い人なんだと私は思いました。
私はこんなにも悩んで、弱っているのにどうして励ましの一言すら、かけてくれないのかと。
だから、私は言ってやったのです。
——アルドリックさんは、私の気持ちなんて、何一つわかってない!
私はハッとしました。
なんて事を言ってしまったのだと。
私が死にかけていたところを助け、寝床を用意してくれて、さらには美味しいご飯まで作ってくれた恩人に私はなんて事を言ったのだと、子供ながらに思いました。
私はアルドリックさんの顔を見ました。
さぞ、鬼の形相が待っているのだと思いました。
しかし、その考えこそが、失礼極まりないことであると、私は知りました。
アルドリックさんはとても寂しく、嘲笑にも似た表情を浮かべていたのです。
——そう、じゃ。わしは、過去を見過ぎたせいか、いつしか他人の気持ちがわからなくなっていた。だから、きっとわしは今、ルナを傷つけてしまったのじゃ。ごめんのう、ルナ。
ひどくしゃがれた声で、アルドリックさんは言いました。
ただ悲しく、ただ寂しい。
頼りになると思っていた、彼が、実はただの一人の人間であるという、あまりに明らかな事実を私はこれまで気づいていなかったのです。
それと同時に、私はそんなつもりで言ったんじゃないという、申し訳なさが、心の内から、沸々と湧き上がってくるのを感じました。
——違うの!私……
言葉が出てきませんでした。
そんなつもりで言ったんじゃない。
じゃあ一体どういうつもりだったのか。
それはもちろん、ただの八つ当たりでした。
ならば、それを馬鹿正直に言いましょうか。
私は、あなたに八つ当たりがしたくて言いました。ごめんなさい。と。
言えるわけがありませんでした。
私を助けてくれた命の恩人に、そんなこと言えるわけがありませんでした。
——燃え盛る瓦礫の前に倒れとるお前さんの過去を見たわしは、このままでは、命ばかりは助かったとしても、この子はいずれ行き倒れると思った。お前さんは、未だ独りでは生きていけない幼子よ。だから、わしはお前さんを保護すると決めた。わしは、すべき事をしていると、思うておるよ。
そう言うと、アルドリックさんは先程の寂しい表情とは打って変わって、いつもの、頼り甲斐のある表情に変わっていました。
子供の私にはそれがとても不思議に思えて、つい、訊いてしまったのです。
——どうして、アルドリックさんは、そんなに優しいの?
あえてアルドリックさんに訊いていなかったこと。
訊いてしまえば、何か大切なものが壊れてしまうような気がしたのです。
だって、見知らぬ家の子供など、見捨ててしまえばいいではないですか。
私は、アルドリックさんからもらった無償の愛が不思議で不思議で仕方がなく、訊いてしまったのです。
——ただの、死に損ないの趣味じゃ。……わしは、各地で孤児を助けては、魔法の正しい知識を学ばせておる。他人から見れば、異常者で、異端者なんじゃろうな、わしは。
そう言って、アルドリックさんは、また、あの嘲笑にも似た表情を浮かべました。
あの嘲笑は私に向けたのだとばかり思っていましたが、あれはアルドリックさん自身に向けたものであると、私はここでやっと気づきました。
正しい魔法の知識、というのは数日前話してくれた、魔法は邪神からの贈り物というのは間違いであり、教会の神父様がくださる、神の恩恵は魔法そのものであるということを指しているのでしょう。
私はアルドリックさんの言葉を聞いて、ふと、疑問に思いました。
——どうして、そんなことをするの?
純粋無垢な子供の質問でした。
アルドリックさんはそれを聞くと、ホッホッホと大きな声で笑い、簡単な話じゃよ、と前置きし、急に真面目な顔になって、力強い目つきで私を見ると、言いました。
——そこに、真実があるからじゃ。我々人間は、真実を知る、義務がある。
私はその言葉を聞いて、まるで、長い長い眠りから覚めたような、爽やかな気分に包まれました。
きっと、何人もの過去を見てきたアルドリックさんの結論。
そこに潜む確固たる意思を、私は感じ取り、そして共鳴してしまったのです。
私は、私のせいで、村のみんなが、母が死んでしまったという真実を知った。
知った上で逃げようとした。
このまま死んでしまおうと。
でも、今、私の目の前にいる老人は、言ったのです。人間には真実を知る義務がある。と。
どうしてそんな辛い事をしなくてはならないのか。
つらい真実ならば目を背けていた方がいいではないか。
しかし、私はとっくに気づいていたではないですか。
そんなのただの先送りだと。
現実は現実としてそこにあると。
それに知らんぷりをするのならば、そこに責任が伴うと。
そして同時に、知ることにも責任が伴うと。
一度は易々と砕かれてしまった覚悟は、間違いでは、なかったのです。
——ルナよ。お前に真実を見せてやろう。お前の母を殺した、真実を。
アルドリックさんは立ち上がると、右手をこちらに差し出しました。
この手を取って仕舞えば、きっと私はもう後戻りすることはできない。
弱かった、守られていた、逃げるだけの、私に。
——戻りたい?
いいや、全然。
だって、私は、無知で、無力で、愚鈍で、愛らしいだけの少女じゃなく、
聡明で、勇敢で、明哲で、美しい、大人なお姉さんになるのだから。
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