第3話
良い匂いがしました。
良い、というのは美味しそうな、という意味です。
ぐーっとお腹が鳴ってしまいそうな匂いでした。
私は食べるのは好きでしたが、作るのはてんでダメだったので、食材や調味料の知識がこれっぽっちもなく、これが何によって発せられている匂いなのか見当もつきませんが、とにかく美味しそうな良い匂いがしました。
それと、これは土の味でしょうか。
懐かしい味がします。
私は、土を食べるのにハマっていた時期がありました。別に好みの味というわけではなく、土を食べると母が怒ってくれるのです。
それが子供の私にはとても楽しくて、何度も土を食べました。
それはそうと、私は何をしているのでしょう。
全身に纏わりつく倦怠感と、背中に広がるひんやりとした土の感触。
パチパチという、最近聞いた何かが弾けるような音と、ザーザーと木々を打つ雨音がしました。
私は恐る恐る右目だけ開けると、水滴が目の中に落ちてきました。
——冷た!
私はつい言ってしまいました。しかし、それが同時に私に気づきを与えました。私は、生きている、と。視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚、が生きている。
——目が、覚めたかのう。
しゃがれた声がしました。
とても心地よく響くいい声です。
心がふっと温まるような、そんな声です。
私は寝転がったまま、両目を開き、声のする方を見ると、白い、けれども、ところどころ汚れが目立つローブを着た、長い白髭のおじいさんが石に腰掛け、鍋をコトコトと煮ていました。
周りは薄暗く、外は雨が降っています。外、というのはどうやらここは洞穴の中らしき場所なのです。
——おじいさん、誰?
私は当然の疑問を口にしました。
死んだと思っていたら生きていたのですから。
それに、目が覚めたら、目の前に見知らぬおじいさんがいるのですから、それぐらい訊いて当然です。
——名はアルドリック・クロノス。ルナを助けた。
おじいさんは端的に言いました。
髭をもしゃもしゃといじりながら言いました。
おじいさんこと、アルドリックさんは、なぜか私の名を口にしました。それに助けた、とも。
——助けてくれてありがとう。アルドリックさん。……どうして、私の名前を?
私は失礼だと思いつつも、寝転がったまま訊きました。
纏わりつく倦怠感が私を地面に縛り付けるから仕方なく、です。
——わしは、人の過去を見る。だから、ルナの過去の断片を見た。災難だったな、ブライトウェル家の娘よ。
同情するようにアルドリックさんは言いました。
子供ながらに、私は、その言葉に、含蓄が籠った強さを感じました。
過去を見る、と荒唐無稽な言葉を易々と信じてしまうほどの強さを。
——お母さんは……
私は助けを乞うかの如く訊きました。
わかっていました。
アルドリックさんは、目を瞑り、髭をもしゃもしゃと弄り、何も言いませんでした。
その代わりに、アルドリックさんは木製のおたまで鍋をかき混ぜ、美味しそうな匂いを辺りに充満させました。
私にはそれが自分が生きている証に思えて、抑えていた涙が急激に溢れ出てきてしまいました。
肌を伝う滴が生温かさを連れてきました。
お母さんは死んだ。
家もない。
帰るべき故郷も、生きる目的もない。
アルドリックさんはそんな私の様子を見かけてか、自身の鞄から木の器を取り出し、鍋のスープを盛り付けました。
そして、気怠そうに立ち上がると、私の元にまで歩いてきて、器と木製のスプーンを私の顔の横に置きました。
——食え、生きるのならば
厳しい声でした。
でも、それは、母の怒ったときとはまた違う声色でした。
とても身体の芯に響きました。
生の力に満ちたその声が、私の死を上書きしてくれたかのようでした。
だから、私の涙はすっと、止んだのです。
——うん
涙と共に倦怠感は消え、私はすぐに身体を起こし、座ると、器ごと食うかという勢いで、食べました。
私はその時初めて母以外の人が作った料理を食らったのでした。
母よりも大きく切られた野菜。母よりも濃い味付け。とても、とても、美味しかったのを覚えています。
私はあっという間に平らげ、気づいた時には私は器をアルドリックさんに向かって差し出し、元気にこう言ったのです。
——おかわり!
アルドリックさんは幸せそうに口角を上げると、はいよ、と短く言ってこちらに手を差し出しました。
私は手をぐっと伸ばし、器を手渡しました。
アルドリックさんは、鍋をおたまでくるっとかき混ぜ、下から具を掬い上げ、盛り付けました。
——ルナは肉が……嫌いじゃったか。
アルドリックさんはまるで古くからの知り合いの様にそう言うと、器からわざわざ肉を取り出し、鍋に戻しました。
——嫌い、じゃないよ。……悲しいだけ
私は肉を食べるのが苦手です。
かつて飼っていた子豚を食らった時から、私は肉を食うたびにその肉の生前の姿を考えてしまうようになりました。
だって、その肉はかつて、動物さんだったのですから。
生きていたのですから。
でも、皮肉にも私は、肉の味が大好きなのです。 私は、なんて自分勝手な生き物なのだと思いますけれど、それが人間であると私は思うのです。
——そうか、あれはそういうことじゃったのか。
アルドリックさんは何かを思い出すかのようにそう言いました。
私はその言葉の意味がわからず、きょとんとしてしまいました。
その様子を見かねてか、アルドリックさんはまたも口角をあげました。
——記憶を見たと言ったろう。わしは見るだけで、何を思っているかまではわからん。
アルドリックさんは、きっと私が肉が嫌いと言った過去を見たのでしょう。
それで肉の味が嫌いだと勘違いをした。
そんなところでしょう。
私はアルドリックさんの優しさに触れたような気がしました。
私は立ち上がり、スプーンを手に持ち、アルドリックさんの元に行くと、横の石に腰掛けました。アルドリックさんは困惑した様子でしたが、私にはそれがたまらなく嬉しかったのです。
——お肉、食べる
私はそう言って、アルドリックさんから器を強奪すると、鍋に戻した肉を再び盛りました。そして、スープを一気に食らいました。
——おいしい!
私は満面の笑みで言いました。アルドリックさんからもらった優しさを、私はこうやって返す方法しか知らなかったのです。
生きる力を与えてもらったこのスープと肉を食らわぬというのは、私が苦手だからという理由で許されていいわけがなかったのです。
——ルナよ。お前さんは良い子だ。だからこそ、これ以上なく、申し訳なく思っておるよ。
そう言うと、アルドリックさんは自身のスープをズッと一口啜りました。そして、器から口を離すと、ふう、と一息吐いて器を石に置きました。
ゆったりとした動作で髭をもしゃもしゃと弄ると、目を瞑り、洞穴の天井を見上げました。
——話さねばなるまいな、ルナ達の村に何が起こったのか。
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