二人の男の行き違い

 空は澄み、雲は太陽に道を譲り、波は八島の船団を後押しする東向きに変わる。


を漕げ!」


 船頭が意気揚々と水夫かこに下知した。己の目に敵国の海岸線が映ったことで戦意が高揚したことも影響したのだろうか。早く故郷に帰りたい、という気持ちもあったのかもしれないが。


 時は夏も半ばの五月上旬。朝廷では軒菖蒲のきしょうぶが執り行われ、また国内でワスレグサがつぼみをつける頃。


「上陸準備を済ませておけ。ぬかるなよ!」


 船団の先頭を突き進む黒船の甲板上で、俊信がせわしなく動き回り部下を激励している。


(桜子さん。私は愚かだ。戦を勝利に導くべく働かなければいけないのに、今もあなたの最期を思い出している。


 あなたが岬から身を投げた時に揺れた髪、海に落ちた時の水飛沫みずしぶき、やがて見えなくなったあなた。


 何かを失う悲しみは、十年前に両親を失って嫌という程に味わったはずだった。


 ですが、あなたが海中に没していくのを見ていることしかできなかったというのは、それに匹敵する心痛をもたらしている。


 桜子さん。今の私には生きる価値が見いだせない。


 あなたは今頃、私が贈ったかんざしとともに沈んでいるのでしょうね。いつでも身につけていてほしい、と伝えて贈った品と一緒に。


 私の思いとともに、あなたは闇へと落ちているのでしょうね。それとも、もう素戔嗚スサノオの元に召されたのでしょうか。


 いや、違いますね。あなたが話してくれた海神ポセイドンの元に召されるのでしょうね。


 仮に我が軍が勝利し、帰還中に運悪く海に呑まれたとしても、私はあなたのいる世界には行けない。私は敬虔な男ではない。死後は無の世界に導かれると思っています。


 こんな喪失感に襲われるくらいなら、あなたとは最初から会わなければ良かった。何かを失うと分かっていたら、あなたに字を教えたり、歌を詠むことなんてしなければ……。


 桜子さん。今まで自分の心を欺くようにしてきましたが、あなたの顔を見られなくなった時から偽ることができなくなった。


 私は、あなたのことが――)


 黙考を続ける俊信。そんな彼の肩に何かが触れる音がした。振り向くと、そこには自分よりも頭二つ小さい小柄な兵士の姿があった。


「総大将がそんなんでいいの? 桜子さん、今頃海底で泣いてると思うよ」


 声変わりを始めていた智紀が、俊信に発破をかけようとしたらしい。しかし、彼の顔には影が差したままだ。


「そうだな」

「俊信さん。一兵卒と総大将の立場じゃなくて、同じ女性に好意を持った男仲間として言わせてください。


 死のうだなんて考えないで。


 今のあなたはまるで、人を死に誘う縊鬼いきに憑りつかれてるみたいだ」


 詩を詠じるように、死を静止しようとした智紀。


 俊信の心は落ち着きを取り戻していく。


「ありがとう、智紀。少し心が落ち着いてきたよ」

「ふふっ、そうなってもらわないと、僕たちが帰れなくなるかもしれないからね。それじゃ困るもん」

「おい、なんだ。声変わりして大人になってきてるからって、私に砕けた感じで接していいと思ったのか?」

「うん、僕は十五歳を迎えて元服も済ませた。立派な大人だよ」

「いや、全然。体は細いし筋肉も少ない。まだまだ子どもだ」

「う、うるさいな。これから大きくなるし、筋肉だってつくから問題ない。それに体を鍛える方法だって学んだし」

「それはどんな?」

「えーと、ここからずっと西にって国があってね。そこで開催される競技会に参加する選手は、毎日子牛を担いで鍛えたそうなんだ。僕も同じことをすれば――」

「子牛に潰されておしまいだな」

「うっ。でも、諦めないよ。僕はあなたより立派に男として戦って、都に帰ってみせますよ。帰って――」

「いや、智紀。お前は船屋形の中にいろ」


 智紀の決意を、俊信が遮る。今まで友として語り合っていたのが一転、指揮官として出す命令口調となった彼に、智紀が狼狽える。


「な、なんだよ。急に」

「いいから残れ。命令だ」

「ちょ、ちょっと待って! 訳を話してよ。ねえったら!」

「おい、お前達。準備はできたか!」


 俊紀の抗議を相手にせず、俊信は船上に立つ兵士一同に演説を始める。


 この時、既に海岸線まで三町三五〇mを切り、上陸地の奥の丘からは駆け足で向かってくる武装兵の一団が姿が見えつつあった。彼らは一様に和弓を持っていて、こちらを上陸を迎撃すべく配備されたのは明らか。


 俊信は友の声に耳を傾ける余裕がなかった。総大将として兵を導く立場の彼にしてみれば、わざとそうしたわけではなかったが、


(俊信さん。僕だって桜子さんを襲おうとした巨漢を退治したことがあるんですよ。なのに、まるで僕を戦力外扱いするなんて!)


と智紀に勘違いをさせてしまう。


 この行き違いが、後で大きな悲劇を招くこととなる。

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