讃岐東麻呂、月夜に想う

 空気が肌を刺し、一方では陽光が春の目覚めを伝えようと顔を出す時間が延びてくる、長安十一年の冬。


「帝、仰せたまはく『造麻呂みやつこまろが家は山本やまもと近かなり。御狩みかりの行幸みゆきし給わむやうにて見てむや』と」


(訳:帝は打ち明けた。「造麻呂よ。お前の家は山の麓に近いそうだな。なら、わしが狩りに出かけたふうを装って、かぐや姫に会いたいと思うがどうかね」と)


 一人の老人が、空に浮かぶ満月を相手に読み聞かせをしていた。


「造麻呂が申すよう、『いとよきことなり。何か心もなくて侍らむに、ふと行幸みゆきして御覧ぜむ。御覧ぜられなむ』」


(訳:造麻呂が答えた。「まことに結構なことにございます。姫の気が緩んでいる時に、ふいにお尋ねになって会われるならば、帝の求愛を姫が断ることはできないでしょう」)


 それは、自分の祖父が招いた悲劇の記録。


「かぐや姫答えてそうす、『おのが身は、この国に生まれて侍らめばこそ使ひこそ給わめ。いとておわしまし難くや侍らむ』と奏す」


(訳:かぐや姫が帝に答えた。「私がこの国の生まれなら、帝の思い通りにできましょう。ですが、私はこの国の人間ではありません。私を連れていき自分のものとすることは、極めて難しいと思われますわ』と)


 そして、祖父が最期の瞬間まで「悔やんでも悔やみきれない」と自分に言い聞かせた歴史的事実。


「帝、御輿を寄せ給ふに、このかぐや姫、きと影になりぬ。はかなく、口惜しとおぼして『げにただ人にはあらざりけり』とおぼして、『さらば御供には来ていかじ。もとのおんかたちとなり給いひね。それを見てだにかえりなむ』と仰せらるれば、かぐや姫もとのかたちになりぬ」


(訳:帝が、無理矢理にでもかぐや姫を自分のものにしようと思い、輿こしを呼び寄せると、姿。こうなっては仕方がないと帝は諦め、姫が普通の人間ではないことを実感した。「分かった。あなたを妻にすることはやめる。もとに戻りなさい。せめてもう一度、人としてのあなたの姿を見てから帰りたい」と帝が告げると、かぐや姫はもとの姿に戻った)


 冊子が閉じられる音が、しわだらけの手によって鳴らされる。その表紙に雨が落ちる。それは翠雨すいうのように、緑で彩られた冊子の表表紙へと水玉を作り続けていった。


「あの娘は『かぐや姫』ではなかったのじゃなあ」


 呟いたのは、イピゲネイアを帝のもとに届けた讃岐東麻呂さぬきのあずままろだ。


 彼は、今は亡き祖父――二百年以上も前に世を去った造麻呂の遺言に従ったまでに過ぎなかった。


『東麻呂よ。すまないな。わしが姫と帝を強引に結ばせようとした結果、食べることさえ事欠くような苦労をさせてしまって。


 わしは後悔しておる。今思えば、己の栄達よりも姫の気持ちを優先させるべきだった。


 帝から子々孫々まで飢えずに暮らせる程の財物をちらつかされて、わしはその対価として姫を……売り渡してしまった。それを知った時の姫の顔は今でも鮮明におぼえておる。


 わしもわしで酷薄じゃったが、帝も帝で酷いことをした。民から収奪した税で都とその郊外に次々と寺社を建て、ようにし、どうにかして逢瀬おうせを遂げようとなさったのじゃから。


 挙句の果てには、しようと……。


 これでばちが当たらない方がおかしいというもの。


 姫が怒り狂って、都に大きな禍を……土蜘蛛に都の襲撃を促すよう計画しても、なんら不思議ではなかったわけじゃ。


 思うに、なんじゃろう。奴らはこれからも、それこそ東麻呂よ。お前が子を産み、子から孫が生まれ、さらに幾世代を経ようとも都の脅威となり続けるじゃろう。


 その原因は他ならぬわしじゃ。


 わしは金と引き換えに姫を売り渡しただけでは済まなかった。八島国全体に不幸をもたらしてしまった!


 東麻呂よ。わしはもうすぐ現世うつしよから旅立つ。


 お前に残してやれるのは、このあばら家と竹林、それとここを去る前に姫が手渡してくれた変若水おちみずだけじゃ。


 この変若水じゃがな、一見すると何の変哲もない水に見えよう。じゃが、姫はこれをと言っておった。飲めば老いた体に活力がみなぎり、体の節々に感じる痛みも癒え、肌に艶が戻るとな。


 じゃが……わしはこれを飲む気にはなれん。


 姫が月に帰った今、わしに生きる希望はない。身寄りもお前だけになってしまった。この世界で生き続ける意味が見いだせなくなった。


 霊薬についてはお前に任せる。飲むなり捨てるなり好きになさい。


 ただ、できれば飲まずに捨ててほしいとは思っとる。


 姫のいない世界に、如何なる輝きがあろうかと……わしには思えてのお。


 すまぬ、かぐや姫……できることならあなたの前に出て……詫びたくてならないのに……もう寿命がきてしまいました。


 本当に申し訳ありません……』


 そう言い残して、造麻呂はあの世へ旅立った。

 孫の東麻呂に新たな生きる意味、いや、呪いをかけてから。


 祖父の遺骸の横に置かれた変若水おちみず

 東麻呂はそれを手に取ると少し飲んでみた。

 するとどうだろう。三十路みそじを超えてから耐えがたいものになっていた腰痛が瞬時に癒え、全身に活力が感じられるではないか。


 東麻呂は考えた。

 この霊薬があれば、祖父の心残りを自分が代わりに晴らすことができるかもしれないと。


 造麻呂の孫として、自分がかぐや姫に謝るのだ。


 「あの時は申し訳ありませんでした」と。


 いつかきっと、かぐや姫が置き土産――帝に射られた際、地上に落としていったという天の羽衣の切れ端を取り戻すため、再び地上に降臨すると信じながら、東麻呂は生きた。生き続けた。


 月の何度満ち欠けを繰り返したも分からなくなるような、気の遠くなる歳月を。


 そして、その待ちわびた瞬間が長安十年十月一日に訪れたと、東麻呂は思った。


 変若水おちみずを飲むことで若返りを繰り返してきた。それはもう一滴すら残っていない。あとはただ老いて死を待つばかりとなり、希望を失いかけていた東麻呂がイピゲネイアを見つけ出した時、それはさぞ嬉しい気持ちであっただろう。


 が待ち続けた女の再臨を、この目で見たのだから。


 しかし、それもやがて失望へと変じていった。


 イピゲネイアが本物のかぐや姫だと信じ切れなかった東麻呂は、希望を確信にするために敢えて帝の暮らす内裏へと彼女を導いた。『竹取物語』に記してあるような事象、即ち帝が強引に彼女を強引に娶ろうとすれば、以前のように光になってそれをかわそうとするだろうと見越して。


 だが、実際はどうだったか。


 帝は一途にイピゲネイアを想うということもなく、それどころか光にもならない。また、祖父に聞かされてきたような乙女としての恥じらい――しとやかさも見られない。


 そのような情報を都の知人から聞かされるうちに、東麻呂はイピゲネイアを祖父の言っていたかぐや姫ではないと思うようになっていった。


(わしは一体何のために、これまであばら家と竹林の間を行き来したのかのお)


 嘆息するばかりの東麻呂。その姿にはこれまでの人生が全て無駄だったと突きつけられた人が放つ無常さが感じられる。


 彼はこれまで「祖父に変わってかぐや姫に謝罪する」ことだけを目的に生きてきた。それが叶いそうにないと思えてくれば、項垂うなだれるのも無理はない。


 だが一方で、東麻呂は疑念を抱いていた。


(じゃが、イピギア様はどうして竹林に降り立ったのじゃ? 何の目的があって、この国に……)

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