第四章 東からの脅威、敵の名は『土蜘蛛』

大友隆資の日記『南右記』 長安十一年の条 その三

 大晦日おおみそかの前日に発生した大火は、泰安京の右京区の大部分及び左京区の北側に甚大な被害をもたらしたが、その前日に鎮火した。


 検非違使からの調査報告によると、南西から吹いた風により左京区の一条大路と二条大路の間の住宅が壊滅しているとのことだった。

 また、その辺りは皇族や公卿の私領が集中した地域だったので、地方からの寄進物などが灰燼に帰したことを嘆く公卿や皇族の姿が見られた。


 今はそんなことも嘆いている状況ではないというのに。


 長安十年の大晦日に実施される予定であった追儺ついなは、前日の大火を考慮して取りやめとされた。大内裏だいだいり及び内裏だいりの焼亡した建物も多く、とても実施に踏み切れる状況ではないと左大臣(大友孝則)、右大臣(大友隆資)、内大臣以下公卿の意見が一致した結果である。


 それよりも優先すべきは都の一刻も早い再興、民の慰撫いぶ、そして各国からの徴兵を急がせることにある。


 都の復興は、当初の予定では長安十一年三月晦日みそかまでに全てを終えることと定められていたが、それよりも早い長安十一年二月晦日みそかにその大部分を完了させることができた。


 また、民への課税も長安十一年九月まで取りやめとされた。このような状況での税の取り立ては却って民心を無用に乱すに過ぎないとの意見が、頭弁とうのべん大友行経おおとものゆきつねから帝に上奏され、それを帝が承認されたのである。


 ただし、これにより各国からの徴兵された民に充てる給与への懸念が陣定じんのさだめで議題にのぼることとなった。私は頭中将とうのちゅうじょう大友斉賢おおとものただかたとともに「公卿の私財を兵士の給与に充てる」ことを公卿に提案したが、左大臣(孝則)と内大臣が「そのようなことは先例にない」と言って反対を表明した。


 確かに先例は重んじなければならない。

 しかし、それを重んじ過ぎればまつりごとは柔軟性を欠き、想定外の事態に対応する術を失うことにもなりかねない。


 もし、このような非常事態に我々公卿が身を切ってでも国を守る気概を見せないのなら、民はまつりごとに失望し、ひいては我々公卿に対する眼差しも厳しいものとなる。


 私と頭中将とうのちゅうじょうは左大臣及び内大臣と激しい論戦を交わした末に、先の提案を帝に承認させるに至った。


 以前は肉欲に耽り、女遊びを非難されること度々の帝であったが、此度の大火を受けて「これは朕の行いに対する報いである」と捉えたようで、長安十一年に入ってからは政務に積極的な姿勢を見せている。


 帝はまだ若い。若いが故に自分を律することができず、欲に溺れてしまうことは珍しいことではない。

 私も若い頃は酒を浴びるように飲み、多くの女の家で「垣間見」をし、相手を落とすための恋文を未明までひねり出そうとし、明くる日の政務に支障をきたしたことがあった。


 そう、誰にでもある過ちである。

 誰かがそうであったとしても特段恥じるべき悪癖でもない。

 それに若いうちに修正できるものだから、周りの者がそれを指摘し、正しい方向に導いてやれれば良いのである。


 しかし、それを指摘する者がいなかったり、指摘された本人が己を省みようとしない場合、本人のみならず周りの者にも大きな損害をもたらすことがあることには留意しなければならない。


 此度の大火を主導した前検非違使別当さきのけびいしべっとう美作融みまさかのとおるの嫡男かおるのことを思えば、私の考えが誤りではない証明となろう。


 彼に対しては各国の追捕使ついぶしに捕縛を命じたが、捉えることはできなかった。

 その後、、そのまま『土蜘蛛』が支配する東国へと逃れた、との情報が長安十一年一月晦日みそかにもたらされた。


 千古という名の女が母衣ほろを広げて空高く飛んだのを、私だけでなく多くの者が目撃している。何か特殊な力を持った母衣を纏っていたのであろう。


 ただ、私は一方で信じたくないとも思っている。


 西でないかと思えて仕方がない。


 彼女を間近で見た稗田智章ひえだのともあきらの遺児智紀とものりいわく、その女の胸元には赤い桜のあざがあったそうである。


 我が娘にも同様の痣があった。まさか、そんなはずは。


 娘は生まれて三ヶ月で遺棄された。

 それからたった半年で妙齢にまで成長するはずがない。あり得ない。


 だが、彼女について調べないわけにもいくまい。


 私は去る二月一一日に開かれた列見(れけん:六位以下の役人の昇進を決める儀式)にて、僧兵襲撃事件で大きな功績を挙げた関俊信せきとしのぶ殿を正三位しょうさんみに昇進させ、さらに八島帥やしまのそち、即ち全軍の指揮官に任命することを帝に上奏し、それが認められた。


 その少し前、『土蜘蛛』が安房島あわのしまに船団を派遣し、同地の国司こくしを始め下級役人、果ては配流に処された恒宮「元」親王さえも斬り捨てたという報告がもたられての人事であった。


 何の因果であろうか。十年前に都を襲った『土蜘蛛』と戦い、命と引き換えに八島国を救った関俊頼せきとしよりの遺児が、今や八島国の未来を賭けた大戦における指揮を任されるとは。


 だが、彼は実力こそ本物であるが外征の経験は皆無。また、体の傷も全快したとは言い難い。


 そのために「外征に際しては右大臣が八島帥やしまのそちを補佐するように」と帝から申し渡された。私とて若い頃は武芸に励んだ。五十路いそじとはいえ、若い者に後れを取るつもりはない。


 もうすぐ外征軍の出撃である。今は四月一日の丑三つ時午前二時。雲一つない夜空のせいか空気は肌寒く、私は寒さに震えている。


 長安十年の年末から十一年の三月晦日までの出来事を思い出し、それを一気に記したことで頭がくらくらしている。そろそろ筆を置きたいと思う。


長安十一年四月一日

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る