千古、香とともに飛ぶ

「ふざけるな!」


 風に煽られた炎が都を襲う中、俊信は吠えた。口から泡立つ血を吐きながらも、まだ諦めを見せぬ鋭い眼差しで、彼は香を一直線に見据える。


「お前は臣籍降下しんせきこうかしたとはいえ……皇族の血を引く美作みまさか家の出。


 そのお前が帝を、朝廷を、国を、民を蔑ろにするとは!


 今ならまだ引き返せる。考え直せ。どうせまた、そこの女子おなごに何か吹き込まれたのだろ?


 香、お前はいつもそうだ。父が検非違使けびいしの……別当であることを幸いと、都の女子と遊んでいるのを……聞き及んでいるぞ。


 これまではお前の行いを見逃してきた……。だが、今回ばかりは看過できぬ!


 香、お前を逃がしは――」


 俊信の決意は、最後まで言い終える前に喀血に妨げられた。


「俊信様! もうやめてください! 死んでしまいます。喋らないでください。お願い……」

「いいえ、これは私とあの男とで決着を付けねば……ならない話なのです」


 今にも息絶えそうな俊信は、背後に控えるイピゲネイアに振り向いて言う。


「それとあなたをあの男に渡すわけにも行かないので――」


 俊信は倒れた。杖にしていた『稲薙剣いななぎのつるぎ』の刀身がはばきの部分から折れ、彼は自らが作った血の海に横たわり動かなくなる。


「俊信様?」


 彼が動かなくなったのを間近で目撃したイピゲネイアが、平常心でいられるほずもなかった。


「ねえ、嘘ですよね? 返事してくださいよ。


 この前、智紀とものり様と年越しをしようって約束したじゃないですか。


 それに『三人で歌詠みの会をしよう』って約束はどうなるんですか。


 ねえ、答えてください!」


 イピゲネイアが嗚咽おえつをもらす。彼女は俊信が死んだものと思い、どうにかして生き返りはしないかと彼の体を手当たり次第に触れて蘇生できないかと試みる。


「安心しな。死んじゃいねえ」

 

 取り乱すばかりのイピゲネイアとは対照的に、香は至って冷静だ。


「口元の埃が舞ってる。まだ生きてるぜ。まあ、このままじゃいずれ死ぬがな」

「あなた……」

「なんだい?」

「俊信様は、あなたの友人ではないのですか!」

「うん?」

「俊信様が死ぬかもしれないのに、なんで平気でしていられるんですか!」

「嫌いだから」


 香はどこまでも冷酷だった。


「嫌いだからさ。そいつのことが、ずっと昔からな。


 軍事貴族だからって事あるごとに『武士もののふの道』を説いてきやがってよ。ふん、くっだらねえ。


 高貴な家に生れた男が、どうして自己の研鑽に励まにゃならねえ?


 好き勝手に生きて何の問題がある?


 八百万の神々が、仏が俺を罰するのか? 馬鹿馬鹿しい。


 んなもん、死後の話ってもんだろうが。

 

 俺様はな。今さえよけりゃそれでいいんだよ!


 明日のことさえ分からねえんだぜ?


 だったら、今目の前にある快楽に飛びつくのが道理ってもんさ。俺の場合は――」

「女性を愛することですか?」

「分かってんじゃん」

「茶化さないで!」


 もはや「香様」と呼ぶこともせず、イピゲネイアは香を睨みつける。


「香様。わらわ、あの女子おなご怖い」

「千古。どうした?」

「だって、あの女子、わらわの偽物を騙ってるし、その癖にわらわの足元にも及ばない可愛さだし。ねえ、あいつを斬って頂戴よ」

「そうだな。けど、俺は女は斬らねえ主義でね」


 香は千古に手を回されたままで腰の太刀を抜き放ち、その切先を倒れたままの俊信に向けた。


「死んでもらうのは俊信だけさ。出血多量じゃ死なせねえ。俺の手で殺してやる」


 香が太刀を振り上げるのに合わせ、イピゲネイアは迷うことなく俊信に覆いかぶさる。自分の体が彼の血に触れるのもいとわずに。


「どけよ」

「嫌です」

「あんた諸共斬っちまうぞ」

「やれるもんならやってみなさい」

「なんだって?」

「あなたにはできません。私には分かります」

「何がだ?」

「あなたが本当は後悔してるって」

「……」

「もう十分過ぎるくらいの罪を重ねてるって分かってるのでしょう?」

「んなこたねえ」

「嘘です! そんなの」

「ちょっと、香様。この女の口車に乗っちゃ駄目よ」


 イピゲネイアと香の口論に、千古が割って入る。


「それとも、香様はわらわよりもこの女の方が好きなの?」

「そ、そんなことはないぜ」

「だったら、わらわの言うことを嫌とはいいませんよね?」

「も、もちろんだ」

「だったら」


 千古がイピゲネイアを指し示し、香に残酷な命令を下した。かつて僧兵に号令を出した時のように低い声を作って、有無を言わさぬ言い方で。


「殺して。じゃないと、わらわはあなたと一緒にならない」


 千古という女の言葉には、何か不思議な力が秘められているのだろうか。香は、先ほどまで迷っていたことが嘘のように太刀の切先をグイグイと二人――俊信と、その彼に覆い被さったまま離れないイピゲネイアに突きつけようと歩いていく。


(俊信様、あなたが死ぬのなら私も一緒に)


 この世界に転移して三ヶ月。

 右も左も分からなかった私に、渋々といった顔をしながらも色々と教えてくれた、不器用なあなた。

 最初は、あなたのことを女心が分からない朴念仁だと思っていました。

 だけど、本当は異性との付き合い方が分からないだけなんだ、って気付くのにそう時間はかかりませんでした。

 今でもよくおぼえています。私があなたの家にお邪魔した時にふと見せた、愛おしい瞬間を。

 家の池にオシドリのカップルが降り立って、そこでしばらく仲睦まじく水面を泳ぐのを私が見ていたら、あなたは赤面して私から目をそむけましたよね。

 後で聞いてみたんですよ。智紀とものり様に。そうしたら「オシドリは片時も離れずに互いを愛し合うから、理想の夫婦を連想する人が多いんです」って答えてくれました。


 俊信様。もしかして妄想していたのではありませんか? 私と、その……。

 答えてくれなくても、私は怒りません。

 でも、後で答えてもらいますよ。黄泉の国で。

 あなたを一人では逝かせません。

 

 イピゲネイアの涙が、俊信の頬にぴしゃりと落ちる。香の太刀は、躊躇なく二人を貫こうと近づいてくる。千古は二人の、いや、正確にはイピゲネイアの死を見られることに喜び、ほくそ笑んでいる。


(勝った。やはりわらわが本物の「かぐや姫」なのじゃ!)


『残念だがそれは違うぞ。悪辣な女子おなごよ』

「だ、誰じゃ!」


 勝利を確信していた千古に、予期せぬ妨害が入れられた。彼女にしか聞こえない波長の言葉によって。


『お主もこの女子と同じで、本物の「かぐや姫」ではない』

「戯言を言うでない!」

「ち、千古ちゃん?」


 突如大きな声を挙げた千古に驚いた香が、彼女を心配して声をかけるも無視される。


「わらわは本物じゃ。誰が言おうともな」

『偽物だ。余は直に会って話をしておるから間違いない』

「そ……そんなこと、あり得ない!」

『ふんっ、余は月の女神。月の姫に会うことなど造作もないことだ』

「月の……女神?」


 千古の動揺が香にも伝わり、彼の手は動きを止めてしまう。愛する女性が錯乱したのかと思って心を乱されてしまったために。


 その一瞬が彼らに付け入る隙を作る。


「二人を傷つけるな!」


 延焼が続く都の北側から大きな声とともに一人の男が駆けてきた。そして、


「この野郎!」


 男はそのままの勢いで香の右手に斬りつけてきた。


「ぐわぁっ!?」


 判断が遅れたうえに千古に左腕を掴まれて動きを制限されていた香は、攻撃を避けきれずに右前腕部に刀傷を負ってしまう。


「ち、血が……」


 おびただしい出血に顔を歪める香。彼は握っていた太刀を落としてしまう。


「とどめ!」


 闇夜に照らされた男の髪は女みたいにおかっぱで、声変わりもしておらず、発せられた渾身の一撃もどこか幼さを残していると聞いた者に感じさせるのは十分だっただろう。


「俊信の腰巾着か!?」

「違う! 僕は恋敵だ!」


 助太刀に来たのは智紀だった。彼はイピゲネイアの悲鳴を聞きつけ、全速力で急行してきたのだ。愛する人を守るために。脇目も振らず、朱雀大路を疾風はやての如き勢いで。


「お前だけは許さない!」


 香は死を覚悟した。利き手には力が入らず太刀で防ぐ術はなかったからだ。


「やらせはせぬ!」


 千古が二人の間に割って入る。彼女は香の前に立ちはだかると、智紀に背を向けた状態で斬撃を受けとめた。


 常識で考えたら体を斬られ即死は免れない状況。だが……。


「何!?」


 刃が布に当たると同時に何かが砕ける音がした。それは月明かりに照らされ、硝子ガラスのようにきらめく。


 それは智紀の太刀が刃こぼれした結果、空気中に舞った玉鋼の粒子。


「そんななまくらじゃ、わらわの母衣ほろは傷一つ付かぬわ。天の羽衣が縫い込まれてるからのお!」


 常識ではあり得ない現象に驚く智紀にそう豪語すると、千古は手負いの香を担いで都からの撤退を試みる。もうここには用などないとでも言いたげに。


「逃がすな! 放火の下手人を都から出してはならぬぞ!」


 その時、騎乗姿の検非違使けびいし百名がこちらに向けて接近してくるのが認められた。指示を出しているのは、右大臣兼検非違使別当の大友隆資たかすけ

 

「わらわが捕まる訳がなかろうて」


 千古は泰然自若たいぜんじじゃくとしている。自分と香を捕縛しようと近づく連中が迫っているというのにだ。しかも、相手は騎馬でこちらは徒歩かちという、どう考えても逃れることなど不可能なシチュエーションでもあった。


 すると、千古は母衣の留め具を外してマントのように開いてみせる。


「さらばじゃ!」


 次の瞬間、千古はイピゲネイアや智紀、隆資の視界から消えていた。いや、違う。大きく跳躍したのだ。


 誰が予測できようか。


 千古が香を抱えたままで、一町百二十mの高みにまで飛び跳ねられるなどと。まるでウサギのように軽々と。


「くそっ!」


 二人が羅城門らじょうもんの向こう側に飛び立つのを見た隆資は、放火の下手人を捕縛できなかったことを悔しがるのだった。

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