都、燃ゆ

 揺り籠の中で揺さぶられるような感覚が伝わってくる。

 誰かが、私の太ももと背中に手を回しているらしい。


(誰?)


 はっきりしてくる嗅覚。鼻に香るのは、故郷で何度も嗅いだ蜂蜜の香り。振動とともにそれが鼻へと入ってくる。


 近くにいる誰かが体に振りかけた香水だな、とイピゲネイアは思った。


(あ、夢から醒めたんだ)


 瞼から重りが解かれると、イピゲネイアは目を開けて周囲の状況把握に努める。中天に月がかかっていることから夜だということはすぐに分かった。


「あ、目を覚まされたのですね。よかった。二度と目を覚まさないかと思いましたよ」


 彼女の耳に届けられる男の声。それは以前よりも柔らかく幾分角が取れた調子であることが、イピゲネイアには分かった。


「俊信様?」


 ややあってからイピゲネイアは応えた。声とは裏腹に彼の表情は険しく、緊張感を湛えているようだった。


「ど、どうしたんですか、一体何が」

「口を塞いでください! 煙を吸っては一大事です」


 煙? 一大事? どういうこと?


 イピゲネイアの疑問に答える者はいない。彼女を抱きかかえる俊信には答える余裕がなく、また二人にすれ違う人々も同様だったから。


 意識が覚醒してくると、イピゲネイアは周囲が赤く色づいていることに気付く。


 もしかして、智紀様が言っていた紅葉もみじ? 

 でも、なんか変。チリチリと何かが燃えるような音が……。

 ……燃えている? なんで? 何が燃えてるの?


 やがて彼女の眼に映りだす黒煙。それに巻かれまいと都の人々が郊外に逃れようと懸命になる姿が、ポツポツと確認できるまでに意識が明瞭になっていく。


 中には煙を吸ったのだろうか。わだちに横たわりピクリとも動かない犠牲者の姿も散見されてくる。


 独りで倒れている者、親しい人と手を合わせたまま動かない者。

 我が子の手を引いている途中で煙に巻かれ、力尽きた親子。

 長年付き添った妻を置いてはいけないと思ったのか、皺だらけの手でその手を引っぱり、どうにか火の手から逃れようとするも、黒いもやに取り込まれ苦悶の最期を遂げた老夫婦。


 この世の地獄とは、まさのこのこと。


「いや……」


 悲惨な光景を立て続けに見せられて、イピゲネイアは錯乱せんばかりだった。十五歳の乙女にとって、それは目を覆いたくなるような惨状であり、そんなものを見せられた彼女が平静でいられるはずもなかった。


「いやあーーっ!!」

「騒がないでください。落ち着いて」

「でも。でも」


 動揺するイピゲネイアに無用な混乱を与えぬよう、俊信は抑揚を押さえた口調で話しかける。駆け足を緩めることなく、微塵も呼吸を乱さずに。


「とにかく今は、私の言うことを聞いてください。いいですね」

「は、はい」


 首を縦に振ると同時に同意を示したイピゲネイアに、俊信がここに至るまでの経緯いきさつを語って聞かせる。


「いいですか。まず、あなたは自宅を僧兵に襲撃されました。おぼえてますか?」

「はい、おぼえてます。五人の黒服姿の――長槍みたいなのを持った人たちが、私と家で働く女性の方々と一緒にいた北対きたのついに押しかけてきて」

「そう、それです」

「だけど、その後のことは何も」

「なるほど、おぼえていないと」

「ええ」

「あぁ、クソっ!」


 二人の目の前で大路に植えられていたやなぎの街路樹が、みしみしと地響きにも似た音を立てて行く手を塞いだ。


「別の道を通るしかない」


 今まで表情筋をほどんど動かすところを見せなかった俊信が、珍しく焦りの表情を見せている。また、額からは汗を噴き出し、着ている闕腋袍けってきのほうは水分を吸って重くなっていた。


「こちらなら郊外に抜けられそうだ」


 俊信はイピゲネイアを抱きかかえたまま、当初通り抜ける予定でいた道順――イピゲネイアの自宅から東に進み、西市にしのいちを左手に見ながら通過。最後は朱雀大路から南に羅城門を抜ける――を断念し、まだ延焼が進んでいない右京区の九条大路を南に針路を採り、そこから東進し朱雀大路へと向かうことに決めた。


「風は南西に吹いているから、こちらの道は煙にやられずに済みそう……ゴホッ!」

「俊信様!?」


 突然咳込む俊信を気遣うイピゲネイア。まさか、自分をおぶっているうちに負傷したのでは、と心配したのだ。


「な、なんでもありませんよ。こう、肺が痛むもので……心配なさらず」

「そんな! まさか、私をおぶったから――」

「違う!」


 丁寧な言葉遣いを心掛けてきた俊信がここで初めて、イピゲネイアに飾らぬ誠意を打ち明ける。


「あなたは何も悪くない。悪いのは私だ」

「え?」

「あなたが僧兵に襲われようかという時、私は満身創痍で……あなたを助けに行けなかった。


 あなたを守ろうと必死に戦っていた、智紀とものりの助太刀にも……。


 私はこの都を守護する役目を代々努めてきた関家の当主。だというのに――」

「もう喋らないでください、俊信様!」


 これ以上は話させまいとするイピゲネイア。俊信の闕腋袍けってきのほうの胸部分が徐々に赤くなっていくのを目の当たりにした彼女は、彼がさらに消耗するのを抑えたかった。


「いえ、言わせてください。

 

 私は……無力でした。


 慢心していたのです。


 十年前の大戦おおいくさ――『土蜘蛛』の襲来で私は父を喪いました。


 私の目の前で、全身を剣に貫かれて……。


 私は死んだ父に代わって、この都の守り人になりましたが……。正直、父のような身を削るような修練を積んでは……きませんでした。ゴホッ!」


 俊信の口からとめどなく溢れる血液を見て、イピゲネイアはもはや彼に喋らせまいと懇願する。


「詳しくは知りませんが、誰もあなたを責めたりはしません!


 少なくとも私は絶対に……。


 私のことより、あなたは自分を大切にしてください!」


 イピゲネイアは尽力した。俊信にこれ以上自分を傷つけさせまいと。


 だが、俊信は構わずに続ける。


「いいえ、そういうわけには……いきません。


 私は誓ったのです。あなたに瓜二つの姿をした物の怪に。


『この人は絶対に死なせません』と」


 イピゲネイアは思い出した。夜分に俊信が自宅に乗り込んできた時のことを。


 あの時、俊信様はその訳を話してくださらなかった。

 いや、話せなかったのだ。

 多分、俊信様が見たのは私が仕えた女神アルテミス。

 そうか、俊信様は私の守護を命じられたのか。

 そして、それを私に伝えないよう厳しく言いつけておいた。

 アルテミス様だと知らなかった俊信様が、それを物の怪――智紀とものり様が言っていた悪い霊と勘違いしたのね。

 

 ここでまた一つ謎が解けたイピゲネイア。だが、その間も俊信の喀血かっけつは収まらない。


 そんな時、二人に近づく影が二つ。


「よう、苦しんでるか? 俊信」

「へえ、あなたが香が言ってた『かぐや姫』? 髪の色に肌の色が、わらわと全然違うのじゃな」


 美作香と千古が、二人の前に立ちはだかるのだった。

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