月の女神が乙女に語る。転移の真相とその使命を その一

「……?」


 イピゲネイアが目を覚ますと、周囲に広がるのは一度はいつか見た光景。

 辺り一面が闇の世界で、天を仰げば月が自分の顔に月光を注いでくるという、幻想的な空間だった。


 ただ、今回は少し事情が違うことに、イピゲネイアは気付く。


 舞っていたのだ。オリュンポスから世界を治める神々の王ゼウスが、地上を見下ろすために遣わせるイヌワシが。


「ゼウス様の御使いがどうして」

「その訳は余が話そう」

「ひゃあっ!? 誰?」

「おや、開口一番に無礼を働くとは思わなんだ」


 イピゲネイアの前には、絶世の美少女が立っていた。


 月光に匹敵する輝きを放つ、ブロンドの髪。

 膝丈のチュニックから下に伸びる生足は、男を悩殺する必殺の武器。

 背中にかけるえびらには、愛を騙る男を裁くための矢が数十本。

 その顔を飾るは月の如き妖しさ。

 肢体から放たれるは、純愛への一途なまでの信奉。

 そして、愛を騙る男への激しい憎悪。


「処女女神に仕えた巫女イピゲネイアよ。お主は目の前に自分が崇める女神が現れても礼を欠くほどに愚かなのか?」


 自分が仕えた処女女神。まさか!?


 イピゲネイアは悟る。このままでは数秒後に自分が抹殺されかねない状況にあることに。


 「あ、アルテミス様!? も、申し訳ありません! お許しを!」


 アルテミス。

 ギリシア神話における月の女神にして、純潔と狩猟を象徴する存在。

 そして、真実の愛以外は決して認めない純愛至上主義の厄介な乙女。

 この女神は不義、淫蕩いんとう、そして、自分への辱めを嫌う。


 ある詩人が残した作品に、このような逸話が残されている。


 アルテミスの寵愛を受けていたカリストという名の乙女がいた。

 彼女は女神に純潔を誓っておきながら、それを破ってしまった。

 その仕掛け人は、なんとアルテミスの父にしてギリシア神話の最高神ゼウス。


 ゼウスは変身能力を駆使し、カリストが愛して止まないアルテミスに変身して彼女に近づき、遂に禁断の愛を育んでしまう。


 それから九ヶ月が経ったある日のこと。カリストに裁きの時が訪れる。


 アルテミスの指示で、彼女に付き従う乙女たちが水浴びをすることとなった。当然、女神のお気に入りであるカリストも加わることとなる。


『どうしたの? カリスト。早く服を脱いで身を清めなさい』


 女神の指示には逆らえない。観念したカリストは服を脱ぎ裸体を晒した。


 罪を証拠付ける、膨らんだ腹部が明るみに出る。


 女神は一切の慈悲を見せなかった。


 不義を犯し、淫蕩に耽り、孕んだ腹を己に見せつけるという辱めを加えた女に、女神が容赦することなどあり得ないのだ。


『余の前から去れ。忌まわしき罪を犯した女。なんじの身の肉欲に塗れた四肢からは腐臭がする。余にそれを嗅がせるな! 失せろ!」


 こうしてカリストはアルテミスに見捨てられた。一説には熊に変身させられ、その挙句に射殺されたとも伝わっているが定かではない。


「まあ、そう畏まるでない。楽にせよ。これから話すことは長くなろうから。それにお主を罰するつもりもない。させてから、一度もお主が男と不実な逢瀬を重ねているのを見ておらんからな」


 女神に危害を加えられる心配が杞憂に終わり、イピゲネイアは一安心する。「罰しはしない」と断言されて肩の荷が下り気がしたのだ。


 だが、今度は女神の言葉の意味を解消したい欲求に襲われる。


 待って、アルテミス様は今なんて?

 私がこちらに来てからずっと、アルテミス様は私を見張ってたってこと?

 いや、それよりもずっと気になることがある。

 お主をここに転移させてから?

 まさか私を八島に送りこんだのは……。


 イピゲネイアの様子を見つめていたアルテミス女神が、男を悶えさせる悪戯っぽい笑みで答えてやった。


「そうだ。お主をこの遥か東にある蛮族バルバロイの国に送り込んでやったのは、この麗しの女神アルテミスだ。感謝せよ。危うく首を飛ばされそうになったお主を、すんでのところで助けてやったのだからな」

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