予期せぬ襲撃
西からは雑音。東からは歓声。
それを同時に受け取ったイピゲネイアが不快感を露わにする。調律が滅茶苦茶な
「智紀様、西から聞こえてくるのは?」
「あれ?
智紀の表情からは、恒宮親王という男への憐みの念を感じられた。
「ネンブツ?」
「あなたが初めてこの国に降り立った時には、仏教があまり普及していませんでしたから、知らなくても仕方ないか。
ひと昔前の仏教では厳しい修行を経て『悟り』を開いていたけど、今は『誰でもできる念仏で浄土に行ける!』なんて言って信者獲得に励む人が増えててね。
その一つが恒宮『元』親王が開いた安寧寺。あなたも大路を歩く時、安寧寺に行く人々を見たことがあるかと思いますよ」
イピゲネイアは思い出す。ゴロツキに絡まれる直前に「安寧寺に行こう」と言って救いを求める庶民の姿を。その誰もが薄汚れた水干を身に纏い、頬は痩せこけ今にも倒れそうな様子だったのをおぼえている。
古今東西、明日を生きることさえ定かでなく、公的機関を頼ることさえできない人々の行きつく先が信仰というのは珍しいことではない。
そして、貧しい人々を己の権威向上に利用する輩がいるのも、認めたくはないが事実だ。
「恒宮親王は本来、今の帝より皇位継承順で上だったんだ。
けど、今の都を牛耳ってる左大臣
その見返りに私領地を大幅に増やしてもらったそうだけど、今度はそこに多くの
誰に聞かせるふうでもなく、しかも早口に語る智紀の様子を見たイピゲネイアが尋ねる。
「随分と詳しいんだ。寺の別当様とは親しいの?」
「親しかった、というのが正しいかな」
智紀の答えは過去形だ。
「父は恒宮親王の
「それは……辛かったわね」
「それだけじゃない。左大臣が親王に皇位継承権を放棄させたのと同じ時期に、都は大きな危機に見舞われたんだよ」
「大きな危機?」
「東から蛮族が襲来したんだ。『土蜘蛛』って連中で、あなたが月に旅だって間もない頃に一度、都を攻撃した奴らだよ。
その時は都や各国に配備された守備隊が大きな犠牲を出しつつも、どうにか撃退できたんだけどね。俊信の……いや、やめよう。
ま、とりあえず、疫病が大流行するのは『土蜘蛛』が襲来する前触れだと言われてて、不思議なくらいに連動するんだ。
『疫病の大流行は土蜘蛛襲撃の予兆』って父は度々左大臣らに訴えたのに……。左大臣のやつ、帝に女を当てがって都を己の手中に収めやがって!」
不安と殺意が混在した複雑な感情が、智紀の眉を吊り上げさせる。それまで見せていた穏やかな表情から一変、今は鬼の形相をしている。
高い地位にいた父を失った彼には有力な後ろ盾もなく、もし朝廷での出世を望むならば大学寮での地道な勉強を経て、卒業後は政治の主導権を握る
誰にも
智紀にしてみれば、帝を蔑ろにして専横を極める孝則を許すことはできなかっただろう。
「道を開けなさい!」
大内裏から南に延びる朱雀大路を行幸する帝の一行。その前駆として先払いをする滝口の武士の大声が二人にも届く。
(俊信様と香様の声だ)
ふと耳に心地よい男の声を時間差で耳に入れたイピゲネイアが、目と心を東の朱雀大路に向ける。
本当は顔を見たい。
だけど、穢れのせいで家からは出られない。
寂しくてたまらない。
誰かに心の隙間を埋めてほしい。
できることなら、あの人の胸に飛び込みたい。でも、できない。
いや、
イピゲネイアが苦悶の表情を作る。すると、それを横目で見やる智紀の胸中に嫉妬の念が渦巻いた。
(イピゲネイアさん。まさか俊信か香さんに……)
朝廷への不満と恋敵への敵愾心。
智紀がふつふつと暗い気持ちを沸き上がらせていた、その時。
「帝の
「仏様はお怒りだ!」
西で一段と大きくなる念仏。それに続いて、八条大路から無数の足音がした。
「何者だ!?
焦りと怒気をはらんだ
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