不幸な偶然、幸福な日々

 ゴロツキによる襲撃事件から半月を経た十一月の中の卯の月冬至。時は未の刻午後一時~三時


 釣殿つりどので、二人の男女が遅めの食事と勉強に励んでいた。


「イピゲネイアさん、この字は?」

「これは……ひえ?」

「惜しい。これはいねと読むんです。ほら、今僕たちの前に置かれた高坏たかつきの椀に盛られている粒々の」

「あ、これなんだ!」

「話は最後まで聞いてください。今あなたが食べている強飯こわいいは元々稲の種子なんです」

「はい」

「で、そのままでは食べずに脱穀するんです」

「ダッコク?」

「種子の殻を取り除くんです。すると玄米になる」

「ゲンマイ?」

「そして玄米を脱穀すると白米、つまり僕たちが食べてる白い米になるんです」

「は、ハクマイ……」


 教えることに熱が入る余り、稗田智紀ひえだのとものりは自分の調子で講義を進めていることに、ここでようやく気付く。


「あ、ごめんなさい。食事も採らなきゃならないのに色々と喋っちゃって」

「いいの。気にしないで。智紀様。でも」

「?」

「できれば、智紀様もお体のことを考えていただきたいなって。その」

「食べてくださいってこと?」

「そ、そう。ほら、虫がつかないうちに」

「確かに。では一旦、国語の授業は中断で」

「はい!」

「ですが、食べ終えたらすぐに勉強ですよ」

「え? 少しはお腹を休めてから――」

「それだと、陽光でうとうとしちゃうので駄目です」

「えー」

「えー、じゃありません。ふくれっ面をつくっても無駄ですよ」

「……」

「それともあなたは、蟄居ちっきょが終わったらそんな顔で出仕するんですか? 食べ物を口いっぱいに頬張るリスみたいな顔で」

「そ、そんなみっともないことしません!」


 ぷいとそっぽを向くイピゲネイア。智信がそれを微笑ましく見つめる。


 ところで、二人はどうして同じ家で食事を採っているのか。


 きっかけは、言うまでも先のゴロツキ襲撃事件にある。ただ、ここにもう二つ、八島に流布する「けがれ」と「方違かたたがえ」の概念が影響していたことを述べておきたい。


 八島の、特に上流層に位置する貴族たちは動物の血液や死に直接触れるのを毛嫌いする。それに触れれば災いが降りかかると信じていたからだ。それを彼らは「穢れ」と表現する。


 もし「穢れ」に触れてしまった場合、貴族は出仕を取りやめて三〇日の蟄居ちっきょ、即ち謹慎をせねばならなくなる。


 実は先のゴロツキとの戦闘で、智紀は相手の血液に触れてしまっていた。彼がゴロツキの一人に肘討ちを食らわせた際、相手の鼻を直撃した一撃が鼻血を出させ、その一滴を智広は浴びていたのだ。


 そして、その後でイピゲネイアが彼にお礼を述べた時、今度は彼女が智広の水干の袖に触れしまった。それも鼻血が付着した箇所を。


 よって、二人は穢れが取り除かれるまでの三〇日間は家を出られなくなったのだ。


 これだけなら「智広がどうしてイピゲネイアの自宅にいるのだ?」と思われる方もいよう。この疑問に関しては「方違かたたがえ」で説明できる。


 方違えとは陰陽道に基づく考えであり、方角の吉凶を占う風習を指す。


 例えば、ある場所から西の方角にある目的地に行こうとしてその西で方違えが起こるとした場合は、西を避けて目的地へ向かうといった具合になる。ある抜け道を使って。


 西に直接行けないなら方角を変えて向かえばよい。


 即ち、西ではなく南西や北西の向きに移動すれば方違えを避けることができるのだ。


 ちなみに、ゴロツキ撃退時の智紀の方違えは東。彼の自宅は右京区の九条大路沿いにあり、イピゲネイアの自宅とは反対に位置している。


 そして、彼が自分とイピゲネイアの「穢れ」に気付いたのは彼女の自宅に足を踏み入れた時だった。


 ここまでくればお分かりだろう。


 そう、「穢れ」と「方違え」の合わせ技で智紀はイピゲネイアの自宅から出られなくなったのだ。


 ただ、その不運な偶然が二人の仲を急速に深めていったのもまた事実。


「ねえ、智紀様。双六すごろくしましょう」

「え? ちょっと待ってよ。この前も食後に休憩とか言ってを打ったじゃありませんか」

「じゃ、明日から勉強しなーい」

「ちょ、えぇ……。ああもう、分かりました、一回だけね」

「やった!」


 智紀は「またこれだ……」と心中で呟きつつも、イピゲネイアと双六を始めると連敗続きで負けん気を働かせ、気が付けば「もう一回!」と連呼していた。これではどちらが子どもなのか分からない。


「また負けた!」

「智紀様は双六が弱いんですね。お父様よりもずっと、ずっと……」


 そこまで言いかけて口ごもるイピゲネイアを見て、智紀が尋ねる。


「どうしたの?」

「いえ、お父様のことを思い出してしまって」

「あ……そうだよね。やっぱり月で暮らすお父様のことが気にかかるよね」


 二人の会話は嚙み合っていない。


 智紀は、イピゲネイアが月から来た『かぐや姫』と信じて疑わないから、彼女の言う父とは「月の国を治める王」だと考えていた。


 一方、イピゲネイアにしてみれば「父は故郷ギリシアのミュケナイ王国を治めるアガメムノン」ということになる。


 イピゲネイアは心苦しかった。目の前にいる男に「実は月の人ではない」と打ち明けることができないことが。


 もし打ち明ければ、自分への好意が失われるのではないかと恐れていたから。


「イピゲネイアさん。月の国ではどんな神が崇拝されているの? この前の話だと、確か雷神のゼウス様が月の遥か上空から地上界を治めていて、えーと海は……」

「ポセイドン様が治めているんです」

「そう、それだ。で、月の住民は死ぬと確かハデスとかいう黄泉よみの国に似た世界に魂が送られる……で合ってた?」

「合ってますよ。智紀様」

「よし! ちゃんとおぼえてた。じゃあ、双六はここまでして後は月が出るまであなたのを聞かせてくださいよ」

「そんなに聞きたい?」

「もちろん、だってあなたの故郷のことをもっと知りたいから。それに……あなたのことももっと知りたいから」 

「え?」

「いえ、何でもない。さ、続きを――」


 誤魔化そうと懸命になっている智紀。それを怪しむイピゲネイア。


 そんな二人の耳に、東と西の方角から無数の人々の声が届く。


 東側からは、大嘗祭だいじょうさいを見物しようと集まった群衆の声が。


 西からは、それを妨害しようとするかのような念仏が。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る