乙女としての危機
垣間見があってから数日後の
宮中への出仕を辞退する旨を伝えてから、イピゲネイアは壺装束――
外出の目的は「文学オタク」に会うことだ。
昨日の午後、俊信は再びイピゲネイアの家に足を運んでいた。
その時、彼に字の指南を受けている最中、イピゲネイアは俊信に尋ねてみた。「『かぐや姫』について教えてほしい」と。しかし、
「文学については……そういった類の読み物は好かんのです」
と返答されたので、彼からは詳しく聞けなかった。ただ、
「知り合いに本の虫がいます。彼に『かぐや姫』についての記録をあなたに教えるよう伝えておきますね」
と斡旋してくれたので、イピゲネイアはそれを承諾。
そして、今の彼女はその待ち合わせ場所に向かう途中というわけだ。
「今日も安寧寺に向かわなきゃ」
「そだ。もうこの世に救いなんざねえからな」
(悪い神託でも降ったのかしら?)
彼女の故郷ギリシアにはデルポイという聖域があり、その地に座す巫女が神懸かりの状態となって告げた神託は常に重んじられていた。
もしかしたら、この国にも神聖な神託を下す役割の女性がいるのかも?
イピゲネイアがそう考えたとしても不思議ではない。
ただ、この時点での彼女はまだ八島の宗教というものをあまり理解していなかったせいもあり、それ以上の考察はできなかった。
「えーっと、朱雀門の右手前にある建物……」
目的地付近に来たイピゲネイアは立ち止まり周囲を確認する。
「この辺りよね? 俊信様から伝えられた『大学寮』って建物があるのって」
大学寮。
それは泰安京の最高学府にして、将来を担う官僚を育成する高等教育機関。
文章、法律、数学、そして西方の
これら四つのカリキュラムがあり、ここの門を叩く
言わば、立身出世を望む若人の第一関門だ。
「早く来すぎちゃったかな? でも、待たせるのも良くないし……」
学び舎の入り口手前でイピゲネイアが尋ね人を待っていると、
「おい、嬢ちゃん。あんたが噂の『かぐや』ちゃんかい?」
見るからに柄の悪そうなゴロツキの男が声をかけてきた。立烏帽子を斜めに被り、麻布製の
都の庶民なら一目でわかる、上級貴族の雑用として奉仕する身分の無位無官の出で立ちをしていた。
「はい。そうです。あの、どちらさ――」
「俺様がどこの誰だろうとどうでもいいじゃん? ほれ、『かぐや』ちゃんならさ。昔やったみたいに奉仕してくれない?」
「ほ、奉仕!?」
「皆まで言わねえと分かんない? 大昔は朝廷のお貴族さまとお楽しみだったってどっかで読んだぜ。違ってたか? ま、どうでもいいや。だって」
まくし立てるように喋ってから、ゴロツキの男はイピゲネイアに覆いかぶさる。
「俺っちは、あんたで発散したいんだからよ」
ここにきてようやくゴロツキ男のやりたいことが理解できたイピゲネイアは、両手をばたばたと動かして男の魔の手から逃れようとした。だが、
「離して! 誰か!」
乙女が助けを求めるも、彼女を助けようとする者は名乗り出ない。
イピゲネイアを助ける必要がないと考えていたわけではない。
ただ、怖くて足がすくんでしまったのだ。
イピゲネイアを押さえ込むゴロツキと、その所行の邪魔をさせまいと群衆の前に立ちはだかる彼の仲間たちに。
彼らは親分とお揃いの装いだが腰には武官が携行する太刀をぶら下げており、近づく者がいればそれを抜き放つという面持ちで群衆に睨みを利かせている。
親分の行為を邪魔はさせない。
そんな脅しが群衆の足を地面に縫い付けていたのだ。
(私。こんな男に純潔を奪われちゃうんだ……もう、いいや)
好きでもない男に乱暴されまいと力の限り抵抗してきたイピゲネイアだったが、やがてそれも弱まり、そして後は流れに身を任せようという気持ちになっていく。
乙女としての絶対絶命の危機。そんな時だった。
「ちょっと。大学寮の前で何をしてるんだい?」
髪を首まで伸ばした一人の人物が姿を見せたのは。
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