不可解な現象

「うーん、もう書けない。おぼえられないー」


 口元からよだれを垂らした、はしたない顔のイピゲネイアが呟きとともに目を覚ます。すると……。


「えっ、なに? どこ?」


 自分が、四方八方を黒で彩られた見知らぬ空間に腰を下ろしていることに気付く。


 先ほどまで持っていた筆や和紙に文机、垣も、さらには明かりさえも消えた世界。そんな空間の中で異彩を放つ存在が一つ。


『こんばんは。西の姫』

「うわっ!?」


 幽霊が人を脅かすような仕草で、人らしきものがイピゲネイアの左側からヌッと現した。輪郭は白く、その内側は背景よりやや明るめの黒という、見るからに怪しげな「何か」だった。


「あ、あなた、誰?」

『あ、すまぬ。まずは名乗るのが作法というものじゃな。いかん、長らく故郷に住んでいるとの常識を忘れてしまうぞよ」


 一人でぶつぶつ言っている「何か」をイピゲネイアはいぶかしむ。


 こちらの世界? ってことは、こちらの世界の住人ではない?

 まさか、天界から地上を見下ろすオリンポス十二神の誰か? 

 いやいや、あり得ない。

 私は王族だけど、あくまで人間として生を受けてるもの。

 人間が神を直に見ることなんかできっこない。

 じゃあ、私を見つめるコイツは一体……。


『ぐ、ああっ!!』


 イピゲネイアがしばし黙考していると、急に怪しげな「何か」がのたうち回りだす。耳を両手で押さえていることから、何か聞きたくない言葉が鼓膜を揺さぶったのかもしれない。


『ま、また来るぞ。西の姫。お、お主にはまた会えるからの。そうじゃ、わら、わの名は――』


 謎の物体の言葉はそこで途切れた。


 間もなくイピゲネイアは、空間が大きく揺れるような感覚に襲われ……。



「起きてください」


 右肩に力がのしかかる感覚。背中が左右に揺さぶられ、それに合わせて首も揺れる。耳には何度か聞いた男の声が響く。


(あれ、夢?)


 まぶたを擦り、イピゲネイアが目を開く。


 時の経過とともに明瞭になっていく視界。やがて、イピゲネイアは自分を起こした男の顔をはっきりと視認する。


「と、俊信様?」

「そうです、夜分に申し訳ありません」

「でも、どうして私の家に? 急ぎの用事ですか?」

「い、いや、その……ですね」


 薄緑の狩衣かりぎぬ立烏帽子たてえぼし、白いはかま姿の俊信が答えに窮する。言い訳に使う予定だった同僚がいつの間にか姿を消してしまい、己の行動の不審さを隠す理由をとっさに思いつけなかったから。


(香の野郎……。お前の方がこの女子おなごに惚れ込んでいたではないか。だというのに、知らぬ間に闇夜に消えおって!)


 怒りが彼の右手に伝わり、その手に握る得物えものに強い振動が生じる。俊信の様子を見たイピゲネイアが、ふと視線をそちらに移した途端、


「や、やめて! 殺さないで!!」


と静寂な空間に大きな声を響かせてしまう。俊信の右手に抜き身の太刀が握られていたのだ。襲われると勘違いしても仕方がなかっただろう。


「ち、違います。これには訳がありまして」


 慌てて俊信が左手でイピゲネイアの口を塞ぐ。


「聞いてくれ。私は人殺しではない。頼むから、これ以上大きな声を出さないでくれ。君のさっきの叫び声で間違いなく検非違使けびいしが飛んでくる。あまり叫ぶと、君にとっても困った事態になりますよ」

「じゃ、じゃあ、なんで家の中に入ってきたのですか?」


 悪気があって押し入ったわけではないことが分かり、落ち着きつつあったイピゲネイアだが、それでも俊信が邸内に立ち入った理由までは分からない。そこで彼女は再びその訳を尋ねるも、


「悪いが君には話せない」


とはぐらかされてしまう。


「どうしてですか? あなたに悪意がないのは十分に分かりました。あなたを責める気はありません。だから正直に話してください」

「いや、駄目です。話したら、あの物の怪との約束を――」

「え?」

「と、とにかく、君には話せないのです」


 肝心な部分を明かしてくれないことに些かの不満を感じるイピゲネイアだったが、


「ま、ま、まあ、分かりました。でも、次に同じようなことをしたら帝に訴えますからね」


と言って、その場をどうにか収めようとした。深く追求した結果、本当に襲われても困るので。


 すると、ここで俊信は視線を文机ふつくえに落とし一言。


「ありがとうございます。ところで、あなたが情けない顔をしている時に机上に置かれたふみを読んでしまいました」


 彼の言葉に一瞬固まるイピゲネイア。途端に足先から頭頂部まで血が沸騰するのを感じる。


 へ? 見られた? 私が書いてた手紙を? 寝ている時に?

 勝手に見るなんてひどいじゃない!


「み、見たんですか。私の日記を」

「はい。申し訳ありません。目に留まったもので」


 盗み見たことを素直に詫びる俊信。そんな様子の彼を見て、イピゲネイアは再び考え込む。


 確かに盗み見たのは許せない。

 でも、この人、詳しいことは分からないけれど、何か危機を感じて駆けつけてくれたんだと思う。

 もちろん、これは私の推測で確証なんてない。

 だけど、やっぱりこの人が悪い人じゃないって信じたい!

 そうすれば、私はこの人を深く知ることができるだろうから……。


「どうでした?」

「はい?」

「数日前にあなたが見た時よりも、私の字は上手になっているか……見てくれませんか?」

「私が、ですか?」

「そうです。あなたは字の修練を積んでおられるでしょうから。それに」


 やや間を置いてから、言いずらそうな感じを見せてイピゲネイアは続けた。


「私はあなたに……字の指南をしてほしいって思ったんですから」


 彼女は故郷であるギリシアにいた時、父が雇い入れた教師が国語や算術、哲学、歴史など幅広い分野の学問について教えてくれた。おかげで彼女は知識の面で他国の王女に引けを取ることはなかった。


 他方、ここ八島で生きる自分には家庭教師はおろか実務を教えてくれる同僚さえも付けられなかった。


 持ちなれぬ筆を手にどうにか八島の字を練習してきたが、本当に上達しているのだろうか、と不安になっても無理はない。

 

 自分が知る女官たちは美しい字が書ける。

 でも、自分だけが上手く書けない。


 そんな状況を打破するために、イピゲネイアは懸命に努力した。手にタコを作り、目の下にクマができる程に頑張ってみた。


 だが、それでもイピゲネイアは己の成長を実感できずにいた。自分の字を評価してくれる人がいなかったから。


 女官たちは公平な評価をしてくれないだろう。

 香様は私の字を上手だと言ってくれたけれど、具体的にどこが良かったのかを言わかったから、もしかして適当なことを言っていたのかもしれない。

 でも、俊信様は辛辣な物言いだったけど的確に指導してくれた。だから、きついことを言ってくるだろうけれど、その指摘は的を射たものになると思う。


 なら、私は俊信様に評価してもらった方が今後のためにもいいはず!


 そう自分に言い聞かせ、イピゲネイアは口をきつく結んで俊信の評価を待つ。


 やがて目を和紙から傍に座るイピゲネイアに向けて、俊信は答える。


「上手になりましたね。仮名文字を全て書けてるじゃありませんか。それも以前見た時よりも丁寧な字になっていますよ」


 先日見せた仏頂面からは想像もつかない朗らかな笑顔で、俊信はイピゲネイアを褒めた。それに今度はイピゲネイアが彼の手を取り、満面の笑みでお礼を述べる。


「ありがとうございます。俊信様って本当はとても親切でお優しい方だったんですね!」


 俊信は心臓の鼓動が早まり、続いて顔が紅葉色に染まるのを知覚する。


(い、いかんいかん。この方は帝のお気に入りの女子。私がときめいてはマズい)


 彼は動揺を隠すためにイピゲネイアに背を向けると、


「で、では、今日はこれで」


と別れの言葉とともに駆け足で去っていった。

 

(ところで、あのは何だったのだ? 彼女と似たりをしていたが)


 自分が対峙したに感じた、答えの見いだせない疑問とともに。

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