噂の美女を二人の美男子が「垣間見」る

 月明りがうっすらと地上を照らす夜。


 泰安京の南南西に位置するイピゲネイアの邸宅に明かりが灯っている。


「えーと、今のうちに昨日の出来事を記しておかないと……忙しすぎて、朝になったら絶対に忘れちゃってるもん」


 ごま油を燃料とする光が、イピゲネイアの輪郭を浮かび上がらせる。


 彼女は表を黄、裏を青みがかった黄色に重ね色目した小袿こうちぎを着て、細くしなやかな右手で筆を握っている。


 筆が時折、和紙に近づいたり遠ざかったりを繰り返す。


(今日は美作香みまさかのかおる様の仕草を記入っと)


 乙女の顔が引き締まる。だが、それは瞬時にだらしない顔へと変貌した。


(えへへ、昨日は清涼殿を出られる帝様の横顔について書いちゃった♡ やっぱり「イケメン」は生きる活力だから、いつでも思い出せるように詳細に記しておかないと。よおし!)


 ……やっぱり、いつも通りのイピゲネイアだった。


「えーと、今日はインレキのカンナ……ズ? ヅ? キの……ああもう分かんない!」


 かと思えば急に苛立ち、筆をぶんぶんと無意味に上下に振っている。八つ当たりのつもりだろうか。


「誰か、私に字を教えてくれる人はいないかしら」


 イピゲネイアが呟くと同時に脳裏に浮かんだのは、あの陰気な男の顔。


関俊信せきとしのぶ様だったかな? あの人に頼んで……いや、やめとこ。あの人、私の字を見て馬鹿にしたから。


 きっと私が『教えてください』って頼んだところで『ふん、字の勉強ぐらい自分でどうにかしろ!』って突っぱねられるのがオチよ。


 でも、あの人なら私の成長をしっかりと見てくれる……かな? 私の字を最後まで読んでくれたし。どうしよう?」


 イピゲネイアが関俊信について思いを巡らしている、そんな時だった。


 一体のおぼろげな影が、異国の乙女が住まう邸宅に姿を見せたのは。



 時は半刻程前に遡る。


「香。こういったことは良くないと思うのだが」

「何言ってんだよ? 俊信。お前だってあの『かぐや姫』に本当は興味があるんだろ? ほら、正直に言えよ。どうなんだ」

「いや、まったく」


 この日、夜警任務のないかおると俊信は泰安京の市内を歩いていた。


 都の警備を担う検非違使けびいしに所属しているわけでもない二人が、こんな夜中に何を企んでいたか。その答えは……。


「確か、右京区の六条大路ろくじょうおおじ西市にしのいち付近の邸宅で、たぶん漆喰が塗られたばかりで真新しい垣が建てられているはず。お、ここだ」


 二人の美男子は目的地に辿り着けたらしい。そこはイピゲネイアのために急遽建てられた屋敷――貴族が住まう寝殿しんでん造りの建物だ。

 

「ほれ、俊信。こんなところにおあつらえ向きの透垣すいがいがあるぜ。垣間見ねえのか?」


 垣間見。都の貴公子たちが女性の顔を覗き見る行為を指す言葉だ。


 そう、二人は都を警備中の検非違使に見つかる危険を冒してまで、夜分に噂の乙女の顔を覗いて見ようと遠く――二人の住居はイピゲネイアの邸宅から北東方向の左京区に位置し、歩いていけば足が辛くなる程に離れている――からやってきたのだ。


 ただ、香は垣間見に乗り気ではあったが、俊信の方はそうではなかった。


(こいつを一人で行かせたら、みかどがお気に入りの女子おなごに手を出しかねん。そうなっては一大事だ)


 俊信は、香の異性に対する軽薄さを用心したうえで付き従っているに過ぎなかった。


 イピゲネイアの恋文の件でも分かるように、香はとにかく女を褒めちぎる癖があり、それは結局のところ自分のものにしようという魂胆からそうしているのだと、幼少期からの付き合いがある俊信には分かり切っていた。


 事実、香は宮中の後宮で働く女官の五分の一、つまりという噂を俊信は耳にしている。この数は誇張だろうが、


『これぐらいの数、香なら手をつけていてもおかしくない』


と思われるぐらいには、香は女にだらしがないことは確かだった。


 そんな男と古くからの付き合いがある俊信だ。当然、イピゲネイアも「標的」になっていることぐらい見当がつく。


 しかも、青龍帝が一度は中宮、つまり自分の妃にすると言い出し公卿くぎょうたちに猛反対された女が狙われているのだ。


 もし、香が先にイピゲネイアに手を出せばどうなるか。


 下手をすれば帝の怒りを買って、俊信は香もろとも滝口の武士を解任されかねない。なにせ、都に姿を見せて半月足らずの女を皇后にしたいと言い出した帝のこと。誰かが先に手を付けた、と知ったら発狂する可能性だってある。


 俊信の予測は決しておかしなものではない。


 実際、青龍帝は大の女好き、それも美人には目がなかったわけで……。


 その証拠に、初めてイピゲネイアが帝の前に姿を見せた際、左大臣大友孝則が帝に、


「あの女子おなごが本物の『かぐや姫』かどうかは別として、ここはひとまず都に住まわせては如何か。お上も宮中の女子には飽きてございましょう?」


ささやいたことを、俊信は人づてに聞いてしまっている。


(あの女子おなごを守ってやらねば)


 実直な俊信はイピゲネイアが香の毒牙にかからないよう用心しつつ、だが一方で彼女の様子も気になったらしく、香の隣に立つと静かに透垣へと近づいていく。


「なんだよ、お前もやっぱり垣間見たかったんじゃねえか」


 こそこそと話しかける香を無視して、俊信は月光に照らされたイピゲネイアの顔を見つめる。


「美しい……」


 今まで一度たりとも異性に心を揺れ動かされることのなかった朴念仁ぼくねんじんの俊信が、この時初めて女にうっとりとしていた。


(寝たのか。筆を握っているからきっと字の練習で疲れたのだろうな)


 一生懸命に字を書く練習に取り組むイピゲネイアの姿に、すっかり俊信は虜になっていた。それも突然のことではない。


 宮中の女官にいびられながらも、日々の出仕を欠かさずに続けるひたむきさ。



 好奇の目にさらされてもめげずに、仕事をおぼえようと必死になれる粘り強さ。


 そして、後宮という強いストレスに晒される職場環境にありながら、決して不満を口にはせず、いつも笑顔を絶やさぬ溌剌はつらつさ。


 俊信にとって、イピゲネイアのような女は物珍しく、また実は密かに興味を惹かれる異性だった。


文机ふつくえに突っ伏す姿も、ガアガアと立てる寝息も何もかも美しい)


 まあ、俊信の感性も少しずれている気もするが……。ともかく、彼がイピゲネイアに恋心を抱いていることは確かだ。


 だからかもしれない。


 彼女の近くに異形の怪異が現れた時、瞬時に邸内に駆け込んでいけたのは。

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