『滝口の武士』のイケメンツートップ

 陰暦十月。更衣ころもがえを終えて間もない中旬頃。


 場所は八島やしまの首都である泰安京の内裏だいり。その中の後宮の一つ『飛香舎』で一人の女が溜息をついている。


「はあ。大変」


 ギリシアのミュケナーイ王国の王妃イピゲネイアだった。

 今まで誰かのために働いたことのない彼女は、転移して二週間も経たぬうちに精神的ストレスが溜まりに溜まりまくっていた。


 古代ギリシアでは、王や貴族層には奴隷が複数人いるのが当たり前だった。


 ミュケナイという古代ギリシアで最大の勢力を誇る国の最高権力者の娘として生を受けたイピゲネイアにも、やはり多くの奴隷が奉仕していた。起きてから寝るまでのほとんどの時間、王女には必ず付き人が付き従ってくれるのだ。


 対して、こちらの世界ではどうか。


 帝の配慮により使用人は付けられた。

 仕事場から南西方向にある邸宅からの移動も、牛飼童うしかいわらわの先導による牛車の移動で足を疲れさせずに済んだ。


 けれど、快適なのは通勤時まで。


 一度ひとたび飛香舎に入れば、イピゲネイアには好奇の視線が注がれた。


『あれが噂のかぐや姫?』

『確かに美しい女ね。帝がアレに心奪われたのも分かるわ』

『でも、お裁縫もできなきゃ仮名文字も書けない』

『あらあら、それじゃ見た目以外は価値無しね』

『羨ましい。私にもあんな美貌があれば、帝との子を成せたかもしれないのに』


 箱入り娘のイピゲネイアに浴びせられる、女房たちによる誹謗中傷。

 こんな環境に否応なくぶちこまれて心を病まない方がどうかしている。


 並みの精神の持ち主ならば、とっくに辞退を願い出ているだろう最悪の環境。

 だが、幸いにもイピゲネイアは並みの精神の持ち主ではなかった。

 彼女は「至福の瞬間」が味わえるからこそ宮仕えを続けられていた。


「おい、午後だ。交代の時間だぜ」


 勇ましい声が、飛香舎の東側に位置する滝口陣たきぐちのじんから響いてくる。そこから姿を現したのは、後宮の女達に熱い吐息を吐かせる程に美しい顔立ちの若い貴公子の集団。


かおる殿。俊信としのぶ殿。午後の勤務、よろしく」


 交代を告げた滝口の武士が、藤壺の西に位置する遊技門ゆうぎもんから入ってくる同僚のうちの二人に声をかける。


 右大臣の懐刀、関俊信せきとしのぶ


 検非違使別当の御曹司、美作香みまさかのとおる


 帝の親衛隊たる『滝口の武士』総勢三十人の中でもずば抜けて容姿に優れた精鋭のツートップが歩くところには、絶対に女達の恍惚の表情が横並びする。


 それはいわば内裏だいりで起こる強制イベント。


 イピゲネイアはそれに遭遇すること十回。

 これまで一度も休まずに宮仕えをしてこれた理由は……もうお分かりだろう。


(香様も俊信様も素敵♡)


 滅多に顔を見せない帝よりも遭遇する機会の多い二人の美男子に、イピゲネイアは心を奪われていたのだ。


「あ……」


 その時。文机ふづくえから一枚の紙が、風に吹き上げられて宙を舞った。字をおぼえようと必死に字の練習をしていたイピゲネイアのものだった。


 紙は運悪く――運良くといった方が適切かもしれない――滝口陣へと向かう二人の美男子の足元へと落ちる。イピゲネイアが慌ててそれを拾いに行こうとする。


「うん? 何だこれは」

「仮名文字か?」


 俊信が拾い上げ、香が書かれている字を読もうと試みた。が、香には解読ができなかったらしく、


「読めねえぞ。ったく、こんなお子ちゃまみたいな字を書く女子おなごがこの内裏にいるってのかよ」


と隣にいる俊信にだけ聞こえるように呟いた。


「そうか? 私にはある程度読めるが」

「あ、あの」


 彼らの背後から聞きなれぬ声がした。振り返ると、イピゲネイアが立っていた。


「失礼、これはあなたの?」

「そ、そうです! 字の練習をしていたもので」


 長袴ながばかまのおかげで二人には気付かれなかったが、イピゲネイアは足をもじもじと動かして恥ずかしさを滲ませていた。


 古代ギリシア文字、いわゆるアルファベットを書くのはお手の物の彼女でさえ、八島の字を習得するのは困難だった。転移して二週間足らずで完璧におぼえられたら、それこそ奇跡というものだ。


 ましてや、習熟の覚束ない言語を用いた文章などそう簡単に書けるはずもない。

 

(ああ、恥ずかしい……。私、馬鹿だって思われたかもしれない)


 出来損ないのかぐや姫。


 イピゲネイアは陰でそう呼ばれているのを知っていた。


『昔のかぐや姫は帝や求婚者を相手に上手な歌を書くことができた』

『だけど、今のかぐや姫は字を書くことさえ覚束ない』

『じゃあ、やっぱりあの女は偽物?』


 元来がんらい、大国の王女であるイピゲネイアにとって、誰かから悪く言われるのは我慢ならないことだったが、しかし、それが却って彼女の学習意欲を増進させていた。


 まだ『かぐや姫』のことはよく知らないけれど、私はその人に負けたくない!

 一日でも早く、この国の文字をマスターするんだ!

 そして、いつかは自分の想いを込めた手紙を……。


「あの、よろしいですか」

「な、なんでしょう」


 俊信がぶっきらぼうにイピゲネイアに尋ねる。


「これは恋文こいぶみですかな?」

「ひゃ、ひゃい! そうです!」


 恋文と瞬時にバレてしまい慌てたのか、イピゲネイアが上ずった声を内裏に響かせる。その声を聞きつけた他の後宮の女官たちもぞろぞろと集合してくる。


「この字ですがね。『はね』と『とめ』ができていませんよ」

「へ?」

「あと、この『ア』の字。これでは『ウ』に見えますね」

「へえ?」

「まあとにかく、もっと練習してみてください」

「は、はい……」


 俊信にズバズバと誤字を指摘されてしまったイピゲネイアは自信を失い、体が小さくなったかのように縮こまってしまう。

 だが、そんな彼女に優しく声をかける男が一人。


「俺はそんなこたねえと思うけどな」


 香だ。彼はイピゲネイアの恋文を手に取り、感心したような素振りで優しく語る。


「綺麗とは言い難いが、美しい字を書く才能は感じるぜ」

「ほ、ほんとですか」

「ああ、俺、嘘はつかねえからよ。だから頑張りな。『かぐや』ちゃん!」


 そう言うと香は、公衆の面前でイピゲネイアの左手の甲に口づけをする。その後、彼は紙を手渡してから滝口陣に引き上げ、同僚もそれに続いた。


(よくもまあ、あんな空言そらごとを吐けるものだ。読めないと言ってたくせに)


 俊信は平気で嘘をつく香の背中に侮蔑の念を向けながら、職場へと歩いていく。その時、彼は去る間際にイピゲネイアに向けて言った。


「私もあなたの頑張りを応援しています」


 だが、香の魅力に虜となっていたイピゲネイアに、俊信の言葉は上手く伝わらなかったらしい。それどころか、


(なによ、あの仏頂面な無愛想男。本当は私の字を馬鹿にしてるんでしょ? ふんだ!)


 彼女は俊信の秘めたる思いに気付けなかった。

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