転移してすぐに人違い

「こ、これはこれは」


 尻の痛みにもだえながら乙女が身を起こすと、眼前にはしわだらけの老人が立っていた。興味津々の顔付きをしている。


 あの、私の顔に何か付いてる? 


 もしかして、白粉を塗り過ぎたからそれを不審に思われたとか? 

 いや、ないない。手鏡で確認しながら塗ったはずだもの。

 じゃあ、なんで目の前のおじいさんは私をまじまじと見つめてるの?

 あと、ここはどこ? どう見ても私の故郷じゃないんだけど。

 見たこともない樹木が林立してるし、しかも樹皮は緑色。

 触れたら青銅みたいにカッチカチじゃない。


 乙女があれこれ考えていると、おじいさんが口を開く。


「お嬢さん、どこから来たのかのお?」


 間延びした声で質問を受けた乙女は一旦考えるのを止めて、まずは自己紹介をすることにした。


「私、ギリシアのミュケナーイという国の王女でイピゲネイアと申します。以後お見知りおきを。お爺様」


「ぎ、ぎり……せあ? いびぎにあ? はて、それはどういう意味かのお?」


 あれ? 全然伝わってない? 

 おかしいなあ。一字一句間違えずに伝えたはずなんだけど。

 もしかして発音がおかしい? 

 いや、それはない。いつも通りの調子で話してる。伝わらないはずが――。


 どうしたらよいか分からなくなるイピゲネイアだが、おじいさんはそんな彼女の気持ちなど顧みず、腰を低くしてこう告げた。


「ところでお嬢さん。わしゃ、あんたが満月の夜空から落ちてきたのを目撃して、ここまで駆けてきたんですじゃ。もしや、あんたはですかな?」


 うん? 空から落ちてきた? 月の人? 

 このおじいさん、何を言ってるの?

 ああもう、何がなんだか分っかんない!

 でも、おじいさんのために何か答えた方がよさそうね。

 えーと、えーっと……。そうだ!


 イピゲネイアは頭をフル回転させて、彼女なりに筋の通った回答をする。


「お爺様。私は月の人ではないけど、月の女神アルテミス様に仕えたことならあります!」


 嘘は言っていなかった。

 彼女はかつて父に言われてアルテミスを称える祭壇に、生贄の犠牲獣を捧げる巫女役を任されたことがあったのだ。


「女神様に仕えた? では、あなたは月の巫女様ですかな!?」

「は、はい。そうです、お爺様」

「こ、こりゃ一大事じゃ! ああ待っておれ。イピギア様。急いで車を手配しますのでな!」


 おじいさんはイピゲネイアを残し、林の奥へと姿を消していく。

 一人になった彼女は一つ大きく溜息をつく。


(一体何が起こってるの? ストレスが半端ないわ)


 心細くなるばかりのイピゲネイアだが、今はおじいさんの帰りを待つことしかできないので大人しくしているしかない。


 やがて、おじいさんが戻ってくる。


「さあ、はよう乗りなされ。牛車ぎっしゃでございますぞ!」

「……あ、あのおじいさん。一つよろしいでしょうか」

「どうされましたかな」

「この車、牛がくんですか?」

「ええ、そうでございます。おや、どうされました? あなたは牛車に乗って都まで赴いたことをお忘れですかな?」


 あ、これ、誰かと勘違いされてるな、とイピゲネイアは思った。


(どうしよう。色々と疑問だらけなんだけど。でも、おじいさんは悪い人じゃなさそうだし、ふざけてる感じでもないし……。どうしよう)


 本当は知りたいことがたくさんあった彼女だったが、ここはひとまず、


「そ、その昔ここに来た時の、私のお名前は何だったんですか。おじいさん」


と尋ねることにした。眼前の老人が誰と自分を勘違いしているかを、まずは知っておきたかったから。


 するとおじいさんは、緑の樹木をとても愛おしそうに撫でながら答えた。


ですじゃ。わしの先祖に当たる讃岐造麻呂さぬきのみやつこまろ様が遠い昔――何年前じゃったかのお? 確か二五〇年ぐらい前のことじゃったとは思うがなあ。


 造麻呂みやつこまろ様は、光る竹からあなた様を取り出して大切に養育されたはずじゃが。本当におぼえておられないので?」


 イピゲネイアの疑問は減るどころか増えるばかり。


(カグヤヒメって誰? タケから取り出されたってどういうこと?)

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