第3話 鏡の国の僕

 店を出ると、外は朝の日本だった。腕時計を見ると、先程まで止まっていたはずの針は九時十分を指していた。振り返ると、そこにあったはずの古書店は消え、廃墟となっていた。しかしその廃墟は、温かい空気を放ち、草木が熱帯地域のように生い茂っていた。そして僕は駅へと向かった。

 名刺に書かれていた住所は、静岡県の浜松であった。駅で軽食を取ってから、電車の中で「星の王子さま」の続きを読んだ。

 浜松駅で降り、名刺の住所へと向かった。ついたのはだいたい十三時。やはり夜にならないと店は開かないようで、僕は近くの海沿いに広がる砂丘まで歩くことにした。通りを歩いているだけなのに見るものすべてが新鮮で、家出のくせに楽しくなっていた。そういえば、ちょうど今日から夏休みだ。こんな夏休みも悪くはないと思う。そんな事を考えていたら海の匂いがした。

 うん、と伸びをした。海の風にあたっていると、すべてを許してしまいそうになる。ちょうど良さそうな、砂が盛り上がった小丘が見えたので、そこで本の続きを読もうとしたその時、服を軽く引っ張られた。

 「お兄さん一人?」と、男の子が話しかけてきた。中学生くらいの身長に見えるが、小学生のような愛嬌もある、そんな印象を持った。

 「なんでお兄さんは一人なの?」

 「お兄さんはいま迷子なんだ」嘘はついていない。

 ふーんと、そっけなく返された。

 「お兄さんは海がすき?」

 「初めてみたけど、ああ、すきだね」

 「お兄さん、絵しりとりしよう」

 どこまでもマイペースな彼に流されるままだった。彼は海から生まれたのかなんて変なことを考えた。

 すっかり日が暮れるまで二人で砂浜に絵を描き続けていた。

 「お兄さん、それは羊じゃないよ」

 それから何回か書き直した。あれも違う、これも違うと指摘され続けた。そして僕は大きな長方形を書いた。

 「これだよ!」と彼ははしゃいでいた。

 「じゃあ、お母さんが夜ご飯作って待ってるからもう帰るね。お兄さんありがとう」

 彼と過ごした時間はあっという間だった。現れてはすぐに消える。やっぱり彼は遠い星で生まれたんだろう。絵はあえて消さなかった。波が絵を消すまで、僕らのしりとりは終わらないだろう。僕はなんとなく星の少ない夜空を仰いだ。

 それから僕は「鏡界」へ向かった。砂を落としながら。

 店内に入ると、そこは文字通り、鏡の世界だった。というのも、壁一面に隙間なく様々な種類の鏡が隙間なくかかっている。自分が何人もいるようで、少し居心地が悪くなる。やがて、店の奥から女性が現れた。

 「いらっしゃい。あなたのことは森じいからきいているわ。私の名前は鏡花、まあ好きに呼んで頂戴。あなた、生きる意味を見失ったらしいわね」

 あまりにことの運びが順調で逆にうろたえてしまった。

 ちょっと来てと言われたので言われるがままについていった。そこには小さめの鏡台があった。鏡台の前に座る。

 「いい、鏡をよく見て。なにが見えるかしら」じっと鏡の中を覗いたがそれは普通の鏡で、自分の顔しか見えない。

 「僕の顔以外何も見えないです」

 「そんなはずはないわ。あなたは物事のうわべしか見ていない。しっかりと見て」

 言っていることはよく理解できなかったが、とりあえずやってみることにした。自分の瞳をじっと見つめる。鏡の中に別の僕がいるような、そんな感覚に陥った。その時、瞳の向こうに何かが見えた。

 「水平線だ」

 気づくと僕は、海岸にいた。先程まで僕がいた砂丘だった。家出を始めてから、不思議なことに驚くことはなくなった。とりあえず僕は歩き出した。僕とあの少年が描いた絵はまだ残ったままだった。なぜだかホッとした。どうやら今、この砂丘には僕一人だけのようだ。鏡花さんの狙いがわからず、僕はそのまま歩き続けるしかなかった。

 これ以上進むと戻ってこれないような気がして、絵が描いてあるところまで引き返そうとしたその時、振り返ると一人の少年がいた。見覚えのある、いやありすぎる少年だった。

 「もしかして君は、昔の僕かい」

 「なにを言っているのお兄さん、この世界には二人として同じ人は存在しないんだよ」

 「どうしてここに」

 「僕は今迷子なんだ」

 「ご両親は?」

 「母さんは死んだ。父さんは死にかけだ」

 やっぱり、彼は僕で、僕は彼なんだ。

 「少し歩かない?」少年は言った。


 僕らはしりとりの絵の前に座った。

 「ねえ、生きる意味って何だと思う?」僕は問いかけたあとにその質問は野暮だったと気づいた。相手が自分自身だとわかっていたからだ。しかし、

 「生きる意味なんて本当はないんだよ。誰かに強制されているわけでもないのに、人は生きなければならないと思っている。いや、勘違いしている。自殺という選択肢を持っている人は賢いと思うよ。僕のお父さんみたいに」と思わぬ返答に拍子抜けした。

 違う、違う、違う。僕はそんなふうに思っていない、はずだ。相手が自分だからか、つい怖気づいてしまう。どちらが正しいのか、なにか判断材料がほしい。心臓が軋む音がした。

 「本当に、そう思う?」僕はそれくらいの言葉しか、今は使えない。

 彼はこくんと頷いた。その後少し間が空いた。

 「ねえ、君のお母さんはどんな人だったの?」間を埋めたかったためか、思ってもないことが、口をついて出た。

 「優しくて、勇敢で、温かい人だった」

 彼がそういった瞬間、僕は泣いていた。今まで、母さんが亡くなって押し込めていた感情が一気に、涙という形になって溢れ出してきた。この気持ちを、共有できる人と出会えたのは、これが初めてだったからだろう。僕と彼は、やっぱり別の存在なんだ。彼はつらい過去を真っ向から受け止めて、僕はといえば今ある現実を受け止めるのに精一杯で、つらい過去は忘れてしまおうと考えていた。僕は、罪人だ。

 少年は急に泣き出した僕を見て戸惑っていた。

 「あれ、なんでこれだけ絵じゃなくて四角なのかな」少年は気を紛らわそうとしてくれたのか、そうつぶやいた。その四角とは僕が羊を描けとせがまれて最後に描いたものだった。

 「ああ、あれは箱を描いたつもりなんだ」

 「お兄さんが描いたのか。箱だったのかー。でも、なんの?」とても不思議そうに、首を傾げながら訊いてきた。

 「あの箱は何でも入っているんだ」

 冗談でそういったその時、箱の描かれていた砂浜から雑草が生えてきた。それも、僕が描いた四角の範囲だけで。そして芽が生え、みるみるうちに木になり、繁殖はとどまることを知らず、段々と砂丘全体を飲み込もうとしていた。

 僕らはそれをただ眺めることしかできなかった。自然の成長を、僕らは止めなかった。

 やがて森ができ、実がなったかと思うとそれらは豚や牛、馬や鳥に変わって生息を始めた。バオバブの木や色とりどりのパンジーやバラの花畑などがやがて砂丘を覆い、気づくと僕らは岩となり、自然に還っていった。そこで視界が途絶えた。

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