第3話 湿気

 焼けたコンクリートが雨に濡れる匂いで目が覚めた。

 外は雨が降っていたらしく、ぬるっとした湿気交じりの風が窓から入ってきて、俺の頬にまとわりついてくる。

 どうやら昨晩は窓を開けっぱなしで寝てしまっていたらしい。

 しかし、不自然な状況に思考を止める。


 ……おかしい。俺の寝室に枕元の窓はなかったはずだ。

 大学生用の安い賃貸マンションには、部屋に窓が複数ついていない。

 俺の寝室も例に漏れず、隣の部屋とうっすい壁で仕切られて、気持ち程度にベランダ窓があるだけの雑魚物件である。

 それなのに、どうして。


 疑問を解消すべく、俺は目を開いた。

 そして視界に映る天井に「知らない天井だ……」なんて言いたいのを我慢しながら、それでも眠い目を真ん丸に見開いた。

 薄汚れた天井には一部凹んだ跡があり、なかなかにこの部屋の住人がヤンチャなのが分かる。

 そもそもあれは、俺が小六の時に部屋の中でサッカーをして付けた凹みだ。

 そう、俺が過去に付けた凹みである。

 要するにここは、俺の実家なのだ。

 全然知らない天井じゃなかった。


「……は?」


 状況が理解できない。

 上体を起こし、辺りを見渡すと、見慣れたようで新鮮な実家の自室が迎えてくれた。


「なんじゃこりゃ」


 どうなっているのか全く理解できない。

 どうして俺は自分の家で寝ていたはずが、朝起きたら急に実家にいるのか。

 寝ぼけて自分の足で移動したという線はない。

 そもそも俺の家とこの実家は電車で一時間以上の距離だし、あまり帰省する習慣もないのである。

 じゃあ誰かが俺を移動させたのか? 拉致事件? 警察に通報か?

 いや、それこそ意味が分からないだろ……。


 というか違う。

 もっと根本的におかしい事があった。


「夏じゃん」


 そう、昨晩極寒だったはずの世界が、今は夏日の蒸し暑さを感じさせる。

 

「意味わかんないんだけど……」


 ぼそりと、口から漏れた声は普段よりやけに高く感じた。





 結論から言って、俺はどうやらタイムリープしてしまったらしい。

 現在は2020年の7月10日(月)で、俺は高校一年生に巻き戻ってしまった。

 自分のスマホで調べた情報や親との会話で大体の事情は掴んだが、何故か俺だけが時を越えてこの時代に戻ったようだ。

 生憎SFの類は読んでこなかったため、こういう状況になった時にどうすればいいかはわからない。

 ただとりあえず、流れに身を任せようと思った。


 久々に通る高校の通学路がやけに懐かしい。

 古びた八百屋に学校帰りによく寄ったコンビニ、道路向かいの本屋では漫画の新刊なんかを買いに行ってたっけ。

 高校を卒業してからは二年くらいしか経っていないが、地元に帰ることはほぼなかったからか感傷的になる。


 正直、何度も夢だろうと思った。

 ただ、流石にここまで鮮明に再現されては受け入れざるを得ない。

 大学生活に慣れ切っただらしない精神は、高校の八時登校に早くも悲鳴を上げている。

 一方で埃を被っていた記憶が徐々に色付いてくるのは面白かった。

 こんな状況に陥りながら、少しだけワクワクしている。


 俺は自転車に跨って最寄り駅に向かった。

 毎朝すれ違う近所のおばさんも、登校班で一列に歩く小学生もいつもと同じで、そんな景色を眺めながら進むと左手にマンションが見える。

 何回か訪れたそこは巡葉の実家である。

 

 駅の駐輪場に着くと自転車を停め、そのまま時間通りに到着する電車に乗り込む。

 同じ制服を身にまとう高校生に紛れるのは、若干緊張した。

 自分も高校生のはずだが、一応精神は大学生なのでその分浮いているように感じる。


 席に座った後、何の気なしにスマホを開く俺。

 やろうと思ったのはソシャゲの『ユアドル』だ。

 昨晩・・達成したヒロインとは別の子のストーリーを進めようと思い、スマホのホーム画面をスライドしてアプリを探す。

 だがしかし、すぐにここが2020年でそのアプリがリリースされていない事を思いだし、ため息を吐く。

 タイムリープというと若干の憧れはあったのだが、しばらく慣れないうちは不便なことも起きそうだ。

 

 仕方がないので久々に見る青い鳥アイコンのSNSアプリを開き、情報収集をする。

 脳の奥底に若干残っているような、取るに足らないニュースの数々に退屈が積もった。


 このタイムリープ、明日になったら元の時代に戻ってたりしないかな。


 車窓から外を眺めながら心の中でそう思った。





 高校に着くと、俺は少し困った。

 というのも自分の高一の頃のクラスと出席番号を思い出すのに時間がかかり、その間下駄箱が分からずに玄関で右往左往していたせいだ。

 なんとか思い出してスリッパを履き、教室を目指す。

 久々の高校は当たり前だが、記憶にあるままだ。

 そして、教室の前まで来てからようやく思い出したことがある。


「今って夏休み前だよな。ということは……」


 本来、四年前の自分の教室での席位置なんか覚えていない。

 だがしかし、この時期は違う。

 鮮明に覚えている。

 何しろ、俺にとっては初恋の相手とのかけがえのない思い出だったから。

 

 この時期は柴凪巡葉の隣の席だったと、俺は思い出して顔を顰めた。

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