9/14話

「茶屋のご主人でございますか? 二年ほどまえに、あすこを居抜きで買ったんですよ」


 川越宿の居酒屋で、俺は松田のいまの素性を探っていた。椅子が三つしかない狭い店内には俺しか客がいない。というより、俺が最後までねばっているのだが。


「あの娘っこは小代さよと言いましてね。ご主人の実の子ではないと聞いています」


「母親は?」


「三人でこの宿場へ流れてきてから、すぐに亡くなりました。中山道なかせんどうのいずこかの木賃宿きちんやどで、飯盛り女をさせられていたらしいですよ」


「飯盛り女を……させられていた?」


「へえ。小代さよの母親は、ヒモにたかられていたようで。ヒモの借金を返すために、朝も夜も働きづめだったそうです」


「耳が腐りそうな話だな」


「しかもその借金は嘘っぱちだったらしいんでさ。そのヒモの浪人者は、中山道なかせんどうのあちこちで同じことをやって、女に金をせびっていると聞いてます」


「それでは、小代さよは朝も夜も独りぼっちか」


「そこをあのご主人が、お小代さよちゃんの面倒を見ていたらしいのですよ。ご主人も中山道なかせんどうを流れていたご浪人でいらっしゃったとか」


「あの親爺、武士だったのか」


 俺はカラの徳利をくるくるともてあそびながら、とぼけた。


「そう見えねえでしょう? あの茶屋を買うために、それまでの貯えも大事な刀も全部うっぱらっちまったらしいんで。いやあ、ああして他人の娘を引き取って育てるなんて、なかなかできることじゃねえですよ」


「三人で中山道なかせんどうの宿を出たと言ったな? ヒモはどうなった」


「さあ……。そこまでは知りませんで」


「そうか」


 松田は懐いた小代さよのためにも、小代さよの母親とともに中山道なかせんどうから逃げ出したのだろう。そして川越宿まで流れてきた。


「この川越宿を選んだのはなぜだ?」


中山道なかせんどうは、浦和宿うらわしゅく大宮宿おおみやしゅくのあたりが川の氾濫でしょっちゅう不通になりやすから。迂回して川越街道から江戸へ入る人が集まりやすいんでさ」


 子供のために逃亡をやめ、連れあいとともに腰を落ちつけようとしたのだろうか。あるいは俺のような追っ手がくるとは思ってもいなかったのだろうか。


 剛胆なのか、ただの間抜けか。あるいは元武士としての、一抹の潔さなのか。


 少なくともいまの松田は、子供を守り育てる親の顔をしていた。

 俺の目にはそう見えた。


「まったく、こんな世にも仏さまのようなお人がいるんですねえ」


 居酒屋の親爺の言葉に、俺はまったく同意できなかった。


 あの男は間違いなく、俺の家庭を破壊した鬼畜だ。それなのに、ああしてささやかで平穏な家庭を築いているなんて。


 どうしてだ。どうして俺の父は殺されたというのに、その原因の男がのうのうと生きていやがる。


「お武家さま。もう一本つけやしょうか?」


「いらん。勘定だ」


 俺は数えもせずに代金を払い、席を立った。そして店の戸を開けて外へ出る。見上げた夜空には星が広がっていた。


「なんのために、俺はここへきた?」


 突然、自分を問いただしたくなった。当然、俺は松田を討つためにここへきたのだ。


 だが、あの娘が邪魔になっている。


 明日の朝に、川越の町奉行に仇討ちを届け出たとする。松田は役人たちによって拘束されるだろう。


 何も知らない小代さよは混乱し、連れて行かれる義父を引き留めようとするにちがいない。


 そして俺の前に引き出された松田はなまくらの刀を持たされ、俺が一閃で切り裂くことになるだろう。


 血まみれになって斃れた松田にすがりつき、泣き叫ぶ小代さよが想像できる。その幻の姿が、過去の俺たちに重なった。


 黙ってたたき斬り、本懐を遂げればよい。ただそれだけの簡単なことを、俺のなかの何かが許してくれない。


 背後で見守る父や母だろうか。俺に、鬼畜になってくれるなと祈っているのか。


 俺が松田を討てば、小代さよは天涯孤独になってしまう。しかも目の前で殺すことになるだろう。それこそ狼藉ではないか?


 弱いものに威張り散らしたり、偽って搾取したり、脅威をふりまいていい気になるならず者どもと同じじゃないか。


 そして、そんなことで迷っている俺は、本当に仇討ちがしたいのか?


 当然だ。怨みを晴らしたい。


 だが、その怨みとは、何も知らずにいる者からも平穏を奪えるものなのか?


 もう今日は宿で休もう。こんな真夜中にするような問いかけではない。明日も迷っているようなら、無理矢理にでも町奉行へ届け出をしよう。そして討ち果たそう。


 あのあどけない少女に呪い殺されるようなことがあっても良い。仇の身内に恨まれることもふくめて、これが武家のならいなのだ。


 その夜、俺の夢に現れた小代さよは、松田の骸を前にして俺を「鬼畜」と罵り続けていた。

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