4/14話
翌日は薄明のうちに出立した。
亀屋は最後まで、俺が寝ないで出かけるのではないかと心配していた。鬱陶しくはあったが、おかげで冷静になって一眠りすることができた。
まだ寝静まっている長屋の軒先をゆっくりと抜けていく。早起きの猫が目の前を不意に横切り、おどろかせようとしてくる。だが気持ちはひとつも動揺しなかった。
亀屋の言うことを聞いておいてよかったと感じた。
やがて潮の匂いが朝風にのって香ってくる。見慣れた品川沖の水平線はすみれ色に染まり、いまだ眠りから醒めない人々の夢そのものを覗きみている気持ちになった。
立会川の橋を渡る前、ふと左側を振り返った。
古刹・光福寺の境内にそそり立つ
万が一、返り討ちにあったとしたら、これを目印にしようと思った。寺の中にある
「莫迦だな」
俺は独りごちた。これから仇討ちへ挑もうとする奴が、死んだあとのことを考えてどうするんだ。
自嘲しながら立会川を渡り北上すると、御殿山の手前で目黒川に出会う。この川を西へ遡上して大宮八幡宮へ向かった。
その八幡宮に着くころには、ようやく町家の玄関先で、朝の掃除がはじまっていた。ときおり野菜売りとすれ違うぐらいで、いまだ江戸の街は寝ぼけまなこである。
いつもならこの辺りで休んでもいいが、俺は先を急いだ。今の時間ではどこも休憩処が店開きをしていないし、朝方の涼しいうちに距離を稼いでおきたかった。
さらに北上し、阿佐ヶ谷神明宮、鷺宮八幡宮と経由して白子宿を目指す。
大きな寺社には茶屋か休憩処が必ずある。遠出のための経由地としては都合がいいのだ。
やがて白子宿も目の前というころ。照りつける日差しも本気になりはじめ、体中が汗ばんできた。眉に汗がたまり、油断をすると眼に滑り込んできて痛む。暦のうえでは晩春だが、もう初夏の日差しだ。
道ばたから上がってくる湿気や田畑の水気も、太陽に熱せられて蒸気へ変じている。街道が蒸し風呂のように暑い。すれ違う人や野良仕事をしている者たちもつらそうだった。
やがて、俺は白子宿の目前で茶屋を見つけた。自然、俺は蜜を求める虫けらのように軒先へと吸い寄せられる。
「ようこそ、おいでなさいまし」
店先に出て、打ち水をしていた老婆が出迎えてくれた。案内された店の日陰は涼しく、
総髪を後ろで結んだ髷は汗でぐっしょりと濡れている。いますぐほどいて、結い直したかった。
「はい、どうぞ」
老婆が手ぬぐいを持ってきた。それは冷たくて、すぐさま顔にあてると火照りと疲れが吸い出されていく。
「なににいたしましょう」
手ぬぐいの心地よさに心を奪われていた俺は、注文を忘れていた。
「湯漬けをくれ。それと湯冷まし」
注文を聞いた老婆は会釈して、店の奥へ戻っていく。
ふと、ふらりと入った茶屋で気を抜いたことを拙いと思った。
目当てとする仇、松田は川越宿にいる。そこから離れているからといって、気を抜いていいことはない。
なにを莫迦なと思われるかもしれない。だが、そうやって思わぬところで不意をつかれ、返り討ちにあったという話は多くある。その逆も然りだが。
しかし松田も妙なところに流れてきたものだ。郷里の長崎を離れ、中山道を北上して江戸へきたのは分かる。だが、なぜ川越なのか。
訝しんだが、すぐに心当たりはついた。俺のような因縁をつけられた者がほかにいるからだろう。
常日頃から遊蕩にふけり、咎められれば凶行に及ぶ輩だ。逃げる道中でも方々に敵を作り、ここへ逃げてきたにちがいない。
「お武家さま。お待たせいたしました」
考えにふけっているところへ、店主らしい老爺が湯漬けを盆にのせてきた。
飯碗へささやかに盛られた飯が、茶に浸されて揺れている。そしてその上には梅干しと新海苔がかかり、その香りで口の中がつばでいっぱいになった。
「ごゆっくり、どうぞ」
後追いで湯冷ましもそろったところで、俺は箸をとって湯漬けに口をつける。はじめに少しすすり、そのあとはさらさらと腹の中に流し込むと、塩気が体にしみこんでいった。体が塩を欲している。
つかの間の平穏を味わって腹も心も落ちつき、吹き出ていた汗もいつのまにか止まっていた。
そのとき、にわかに店外が騒がしくなった。
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