2/14話

 品川宿しながわしゅくの外れにある大井村おおいむらへ戻ってきたころには、すっかり日が暮れていた。


 女郎街の喧噪から打って変わり、大井村おおいむらの長屋は静まりかえっている。すでに夕餉の気配もなく、多くの人間はみな床へついているようだった。


 人を探して、今日は川越街道かわごえかいどう白子宿しらこしゅくまで足をのばしてみた。


 だが、とんだ骨折り損だった。おまけに昼に食べた茶屋の団子いらい、何もハラに入れていない。


 さすがにくたびれた。腹の虫が落ち着かないが、家に帰ったら水だけ飲んで寝よう。


 そう決めて、長屋の辻を曲がったときだった。

 間借りしている部屋の前で、誰かが座っている。暗くて風貌は分からない。


「誰だ」


 出し抜けに誰何すいかしてやると、座っていた人物の影がかくんと揺れる。そして顔がこちらを向いた。


「ああ、ハナダの旦那!」


 聞き慣れた声。情報屋として使っている植木屋の男だ。


「大きな声を出すな。夜中だぞ」


「すいませんね。こっち、昼間からずっと待ちぼうけだったもんで」


 近づいていくと、植木屋の顔が暗がりでも見えるようになる。


 植木屋は俺よりも一回り年上の三十半ばの男で、力仕事で鍛えられた大きな体躯をしている。そしてなんでも噛み砕きそうな、亀みたいな顎をしている。だからか、屋号を『亀屋』といった。


 足元から醤油と味噌の焦げた匂いがする。亀屋が座っていた軒先の長椅子に、風呂敷に包まれた重箱が置かれている。そこから香っていた。


「遅くなると思ったので、仕出しを買ってきたんですよ」


「悪いな。入れ」


 部屋へ亀屋を誘い入れる。亀屋が動くたび、ちゃぷりちゃぷりと音がする。酒も一緒に買ってきたらしい。


 部屋の行灯あんどんをつけると、薄ぼんやりと明るくなった。ねぐらに戻ったことで俺の心持ちもようやく落ちつき、頭が体の疲れを実感しはじめる。


 やがて俺たちは行灯あんどんをはさんで、板の間に座り込んだ。


「お疲れでしょう。まずは一杯やってください」


 亀屋が湯呑みに酒を注ぐ。そして俺へ突き出してきた。勧められるがままにそれを手に取って呷ると、空っぽの腹に酒精がしみわたるのを強く感じた。


 くたびれた体に酒は、一番効く。


「さあさあどうぞ。どれも美味そうですよ」


 二段の重箱が開けられた。


 下の箱には醤油色の煮染めや鳥の味噌焼きが詰まっている。そして上の箱には、ごまを散らしたり海苔でくるまれた握り飯が並んでいた。


 俺は重箱をつつきまわし、味の濃い惣菜をむさぼりはじめる。そして握り飯をほおばり、喉がつかえると酒で胃袋へ押しこんだ。


「そのご様子だと、今回もあてが外れたんで?」


「ああ。ただの茶屋だった」


「左眉にケガをしている男だと聞いていたので、もしやと思ったのですがね……」


「あれは刀傷じゃない。やけどの痕だ」


「すみません。傷の見分けもつかんで……」


「いや。いつもすまない」


「めっそうも」


 俺は父の仇を探していた。


 五年前。父は長崎奉行所の与力で、同僚とともにお役目に励んでいた。だから俺もいつかは奉行所でお役に立つのだろうと漠然と考えていた。


 父が斬り殺された、あの日までは。

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