【8】

 一体、どれくらいの間、立ち尽くしていたのだろう。

 いつの間にか、辺りはすっかり暗くなっていた。本格的に、夜が始まりかけている。

 色々なことに疲れた身体を横たえたかったが、あの頃と違って、ツヤツヤと黒光りしていた神社の縁側は、腐り朽ちてあちこちに穴が空いていた。子供が乗っても、メキリと割れて沈んでしまいそうなほどに。

 ……結局、あの頃の思い出を反芻しただけで、あの日の金メダルを見つけることはできなかったな。

 別に、良かった。ダメ元だったのだから。ただ、ふと気になって、思い立っただけだ。そういえば、どうなったのだろうと。

 ただそれだけの理由で、こうして十五年ぶりに故郷に帰ってきた。何もかもを放り出して。いや、放り出されたのは自分の方か。社会という枠組みから。

 だが、結果として、見つけることはできなかった。

 ため息をついて、下を向いた。

 まあ、見つけたところで、別にどうにかなったわけでもないのだ。このドン詰まりの人生が――と、その時、足元の木材の残骸の中に、何か鈍く輝くものが紛れていることに気が付いた。

 何だろうと、しゃがみ込み、カラカラに朽ちた木切れ――恐らく賽銭箱の成れの果て――を掻き分けて拾い上げると、それは、金メダルだった。

「……!」

 紛れもなく、あの日の金メダルだった。赤白青の首掛けリボンに、輝きを放つ金色のメダル。リボンはカビだらけで薄汚れていたし、メダルは所々に錆が浮いていたが、括り付けられている表彰者の名札に、〝高橋 歩〟とマジックペンで書かれている。子供の頃の俺の下手糞な字で。

 なぜ、ここに……。恐らく賽銭箱の中に入れられていたのだろうが、一体どういう経緯があって入れられたというのだろう。歩の家族が入れたのだろうか?ここで死んだ歩の為に?

 分からなかったが、眺めている内に、あの頃の感情が蘇ってきた。

 ―――歩……。

 俺は、表彰者の名札を手に取り、そこに記された、小さい頃からずっと一緒だった幼馴染の名前を指先でなぞって―――、


 ——―思いきり、引き千切ってやった。


 名札を放り捨てると、金メダルを携えて、踵を返す。疲れていた頭に、身体に、怒りと怨みが源となった活力がギュルギュルと漲り始める。

 これは俺のものだ。

 これは、俺の、ものだ。

 ずっと、歩が目障りだった。小さい頃から、ずっと一緒だった歩が。

 昔から、何かにつけては比べられた。親から、近所の連中から、先生たちから、友達から。何をするにしても、比較の対象にされた。

 そして、何をするにしても、歩の方が優れて、俺の方が劣っていた。

 勉強も、運動も、素行も、何もかも。字の上手さも、絵の上手さも、リコーダーの上手さも、作文の上手さも、学力テストの点数も、通知表の成績も、ドッヂボールの上手さも、跳び箱の段数も、縄跳びの二重跳びの回数も、クロールのタイムも、体力テストの結果も、普段の言葉遣いも、忘れ物の回数も、先生から怒られた回数も、掃除の綺麗さも、慕う友達の数も、教室で飼っていたメダカの世話の上手さまで。

 遊びに至るまで、そうだった。トランプも、遊戯王カードも、ポケモンも、スマブラも、歩に勝ったことがなかった。終いには情けを掛けられて、わざと負けられるようになった。

 許せなかった。貧乏な癖に、片親の癖に、まともな勉強机も、ベッドも、最新のゲーム機も、最新のカードパックも買ってもらえない貧乏人の癖に、俺に情けを掛けるなんて。

 住んでいた場所も気に入らなかった。何が、上の歩くんだ。下の翔だ。

 うちより小さくて古い造りのショボい平屋に住んでいる癖に、親が程度の低い底辺仕事をしている癖に、家に軽自動車しかなかった癖に。

 耐え難かった。俺より強くて、俺より賢くて、俺より何もかも優れていることが。

 そう、何もかもだ。夏休みの自由研究の優秀賞だって歩だったし、組体操のピラミッドの頂点だって歩だった。児童会長だって、美里の好きな相手だって。

 でも、唯一、足の速さだけは歩と互角だった。走ることに関しては、あいつは情けを掛けてこようとしなかった。

 だから、最後のマラソン大会だけは、絶対に勝ちたかった。どうしても、勝ちたかった。

 例え、どんな手を使おうとも。

 だから、あの日、歩を特訓に誘った。神社の石段から突き落とす為に。

 すべては計画通りに運んだ。馬鹿のふりをして神社に誘い出し、どこでどうやって突き落とせばいいかを入念にシミュレーションしつつ、石段を往復した。

 その後、神社で祈ろうと提案したのも、翌日の朝に誘い出す為の布石だった。

「男と男の真剣勝負だ!あっ、そうだ、歩。せっかくならさ、明日のマラソン大会の前に、もう一回ここに来ようぜ。朝練の為と、もう一回、今度はちゃんとお賽銭を入れて祈る為にさ」

 そう言って、歩を誘い出した。

「ここで遊んでたこと、親には絶対に言うなよ。怒られるんだから」

 そう言って、釘を刺しておいた。

 馬鹿のふりをしたのが功を奏したのか、歩は次の日の朝、まんまと狙い通りに、誰にも口外せず、早起きして神社にやってきた。

 まず、お祈りをしようと言って、二人で賽銭箱に十円玉を投げ入れた。俺は前の日と同じように、心の中で祈った。

 絶対に自分が一番になれますように、一等賞の金メダルを獲れますように、と。

 誰よりも早く走れますように、とは祈らなかった。歩に勝ちさえすればよかったから、計画の成功だけを心から祈った。

 その願いは通じた。朝練を始めようと石段の上に立った歩の背中を押したら、狙い通りに下まで勢いよく転げ落ちていった。石段を下りて、歩が息をしていないことと、道路側から見ても石段の前まで来ないと鬱蒼とした草木に囲まれて見えないことを確認して、そそくさと歩の家に向かった。いつものように迎えに来た体を装って。

「なんだよ、歩のやつ。ダルそうにしてたくせに、めっちゃ張り切ってるじゃんっ」

 何度も練習した台詞を白々しく吐いて、マラソン大会の為に小学校へ向かった。美里たちクラスメートや先生たちに「変だ」と言って回ったのも、違和感が無いようにする為だった。

 そして――あのマラソン大会で走っていた時ほど、高揚感を感じたことは無い。

 完璧な独走状態だった。地域住民の応援の声を浴びて、ゴールを切って先生たちの歓声を浴びて、後からゴールした者たちから羨望の眼差しを浴びて。張り合いこそなかったが、俺は何よりも嬉しかった。人生で一番輝いた瞬間だった。

 なのに、なのに―――。

 あんな田舎道だから車通りなんか無いと思っていたのに、トラック運転手なんかが歩を見つけたせいで、表彰式は中止になった。みんなの前で歓声と羨望の眼差しを浴びながら金メダルを受け取るはずの表彰式が。

 しかも、歩が病院に搬送されたと聞いた時は焦った。ちゃんと息をしていないことを確認したのに、まだ生きていたなんて。

 気が気じゃなくなりながら、家で待つ羽目になった。意識が戻って俺から突き落とされたことを話されでもしたら――そう思うと、居ても立っても居られなかった。

 だから、死んだと聞いた時は全身の力が抜けた。

 親にも警察にも予め用意しておいた文言で理由を話し、上手いこと納得された。事故で親友を失った傷心状態の幼い子供を装っていれば、大人はあれこれと追及してこなかった。

 だが、まさか、担任のバカが、あんな行動に出るとは思わなかった。 

 俺の金メダルを、俺が獲ったはずの金メダルを、俺が歓声と羨望の眼差しを浴びながら受け取るはずだった金メダルを、歩の金メダルにしてしまうなんて。それも、俺に名前を書いてやれだの、ふざけた提案までしてきて。

 怒りに震えながら、自分の手で殺した幼馴染の名前を書いた。歩の首に金メダルが掛けられた時、みんなは悲しみで泣いていたのだろうが、俺は怒りと悔しさで泣いていた。せっかく殺してまで手に入れたのに、なんでお前のものになるんだ、と。

 怒りのあまりに、その日はどうやって家に帰ったのか覚えていないほどだったが、俺は諦めなかった。

 だから、葬式の時に、二人きりにさせてくれと提案した。もしかしたら、金メダルが棺桶の中に入れられているのではないかと思って。

 だが、探せど探せど金メダルは見つからなかった。悔し過ぎて、死体の歩に向かって慟哭した。最後には、「死んでも俺の邪魔をするのか」と別れの言葉を吐き捨てた。

 それからだ。俺の人生が狂い始めたのは。

 やっと邪魔者がいなくなって、薔薇色の人生を謳歌できるようになると思ったのに、私立中学に上がった途端に学力の差を思い知らされて勉強についていけなくなり、自信のあった身体能力も人並みだと思い知らされて運動部で落ちこぼれになった。ならば人望をと思ったのに、誰もかれも俺のことを軽視した。最初は友達として扱う癖に、徐々に馬鹿にして見下されるようになった。ピエロ扱いされるのが許せなくて、暴れたら問題児扱いされた。問題があるのは俺のことを認めなかった連中の方だというのに。

 何より許せなかったのは、美里が俺を受け入れなかったことだった。いつまでも死んだ歩のことを引きずって、俺をあしらい続けた。何度も何度も、俺の好意を無下にしてきた。何度目のことかは覚えていないが、ある時、いい加減に受け入れろと迫ったら、退学させられた。それどころか、警察沙汰にまでなったのは意味が分からない。少し手を出したくらいでなんだ。途中からは向こうも乗り気だったのに。

 両親まで俺のことを信じなかったのも許せなかった。だから、殴った。昔から抱えていた怒りを発散できて気持ち良かった。いい気味だった。元はといえば、お前らが何かにつけて歩と比べてきたせいだ。そう言いながら、父親も母親も殴った。

 色んな方面に金を払って困窮したからか、それとも居辛くなったのかは知らないが、両親の提案で家を売って引っ越すことになった。転校先での「なんで引っ越してきたの」という質問にはすべて、家庭の事情だと答えた。俺のせいじゃなくて両親が起こした問題だったから。

 だというのに、転校先にも結局、俺のことを分かる奴なんていなくて―――。

 色々なゴタゴタがあった末に、定時制の夜間高校に通って高卒の資格は手に入れたが、どこで働いても俺の扱いは変わらなかった。誰も、俺の価値に気付かなかった。こんな簡単なこともできないのかだの、いい歳こいてこんなことも分からないのかだの、もう明日から来なくていいだの言って、俺の本質を分かろうともしなかった。その度に腹が立って思い知らせてやったら警察を呼ばれて、それを何度も繰り返していたら両親が逃げていった。子供の尻拭いをするのは親としての務めだというのに、放棄して逃げ出したのだ。

 だから、俺も逃げてやった。色んな土地を渡り歩いた。俺の価値を分かってもらう為に、履歴書に余計なことは書かないようにして、スーツを着込み、新天地を探し求めた。

 なのに、なのに、誰も俺の価値を―――。

 社会が俺を受け入れなかった。どちらが悪いのかは明白だ。レベルが低い奴らは、俺のようなレベルの高い人間が同じ場所にいることに耐えられずに、放り出そうとするのだ。生半可な社会の枠組みに、俺という大器な人間は相応しくないのだろう。

 今日辞めてきた会社もそうだ。浄水器の営業などという程度の低い仕事など、俺には似合わない。何様だと思っているんだだの、いい加減にしろだの言って、また俺を放り出そうとしてきた。俺の価値を分かろうともしない会社なんて、こっちから願い下げだ。だから、何もかも放り出してきてやった。上司や同僚のデスクの中身やら、給湯室のゴミ箱の中身やら。顧客の個人情報がたっぷり詰まった仕事用の鞄も。いい気味だ。

 また、新天地を求めよう。そう思って、ふらふらと駅に向かった。だが、ここのところは、いい加減に疲れていた。いつまで経っても俺の価値を見出さない世の中に対して、疲れていた。

 そして、ふと思い出したのだ。あの金メダルはどうなったのだろう、と。

 握りしめた手の中で、鈍く輝く金メダルを見つめる。

 思い返してみれば、これが手に入らなかったから、俺の人生は狂ったのだ。あの時、これさえ手に入れていれば、誰もかれも俺の価値を認めたはずなのだ。この、歩に勝ったという、一等賞の証さえあれば。

 あの時、怖がらずに勇気を出して歩の家に行けば良かったのだ。歩の家族と対面することを恐れず、奪ってやれば良かったのだ。

 そうしていれば、さっき歩のボロ家で、部屋という部屋を探して回ることも、箪笥だの押入れだのをひっくり返す必要も無かったのだ。まったく、忌々しい。

 疲れが吹き飛んだ身体で、ずかずかと鳥居をくぐった。さっきは上るのに一苦労だった石段を軽やかに降りて―――、


「……翔」


 不意に名前を呼ばれて、振り返ろうとした瞬間、背中に小さな手で押された感触があって、

「——―え」

 俺の身体は、ゴロゴロと勢いよく長い石段を転げ落ちていった。

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