【7】

「はあっ、はあっ……」

「ふー……疲れた」

 長くて急な石段を何度も往復するという特訓を終えた俺たちは、神社の縁側に寝転がって一休みしていた。神社は思っていたよりはボロっちくなくて、縁側の黒光りするツヤツヤの床板はひんやりと冷えていて、寝そべっていると心地良かった。

「翔、もういいでしょ?」

「はあーっ……ああ、もう帰ろう」

 縁側から起き上がって、短い石段を下りながら、

「なあ、この間、遠山のおばさんから聞いたんだけどさ。ここって、元々は歩んちがやってた神社だったの?」

「さあ。父さんが死ぬ前に、そんなこと言ってた気がするけど、よく覚えてないや。確か、うちじゃなくて親戚の人が管理してたって言ってたような気がするけど」

 父親が死んだことを歩に言わせてしまったことを後悔しつつも、

「でも、神社は神社なんだろ?賽銭箱とか、鈴があるんだし」

「多分ね。でも、何の神様を祀ってるかなんて知らないよ」

「なあ、歩。お祈りしようぜ」

「お祈り?」

「ああ。明日のマラソン大会、一番になれますようにってさ」

「こんなボロボロの神社で神頼みするの?」

「なんだよっ、いいだろっ、祈るくらいっ」

「ふふ、分かったよ」

 二人で賽銭箱の前に並び、ボロボロの紐を掴んでガラガラと鈴を鳴らした。パンと手を合わせ、心の底から祈る。

 明日のマラソン大会、絶対に自分が一番になれますように、一等賞の金メダルを獲れますように。

「よし、帰ろうぜ」

「うん。でも、お賽銭とか入れなくて良かったのかな?」

「いいだろ。小銭あげないと願いを聞いてくれない神様なんてケチ臭くて嫌だし」

「そんなこと言ってたら、罰が当たるんじゃない?」

「んなことあるわけないだろっ、真剣に祈ったんだからっ」

「なんだか、ちぐはぐだなあ」

「ふんっ、絶対に負けないからな、歩!」

「ふふ、僕だって負けないよ、翔」

「男と男の真剣勝負だ!あっ、そうだ、歩。せっかくならさ、明日のマラソン大会——―」




 歩が死んだのを聞かされたのは、次の日——マラソン大会が終わってからのことだった。

 その日は朝から、いつもと様子が違っていた。いつものように歩の家に迎えに行ったのに、歩はおらず、歩の母親から、「もう学校に行ったよ」と告げられた。寝坊助の歩が、自分より早起きして家を出ることなんて珍しかった。

「なんだよ、歩のやつ。ダルそうにしてたくせに、めっちゃ張り切ってるじゃんっ」

 と言い残し、歩の家を後にして学校へ行った。歩の母親は、歩そっくりの笑顔で見送ってくれた。それが、歩の母親の笑顔を見た最後になった。

 学校へ着いても、歩はいなかった。それを美里たちクラスメートや先生たちに、「変だ」と告げたり、準備運動をしたりしている内に、マラソン大会は始まってしまった。

 結果として、自分は一等賞を獲った。誰よりも早く走り、誰よりも早くゴールへ辿り着いた。道中のあちこちで待機していた地域住民たちから応援の声や、ゴールで待っていた保護者や先生たちからの歓声を浴びながら。とても嬉しかったが、歩が参加していなかったから、なんだか張り合いが無かった。

 そして、さっきから遠くの方で救急車のサイレンが響いているなと思いながら、表彰式の前の昼休憩で振舞われる保護者一同の作ったカレーを美里たちと一緒に食べている最中に――担任の先生から、歩が重傷を負って病院に搬送されたと聞かされた。不穏で慌ただしい空気が流れる中、表彰式は急遽中止になり、自分たち子供はそれぞれの親に連れられて帰らされた。いつになく真剣な顔をした両親から家で待機しているようにと言われて、言わるがままに、だが、気が気がじゃなくなりながら待っていると、夕方になって両親が帰って来て、歩が死んだことを告げられた。

 全身の力が抜けて、呆然と座り込んでいると、両親はぽつぽつと事の次第を話し始めた。

 歩は昼前に、上の神社の石段の下で倒れているのを、偶然通りかかった貨物トラックの運転手によって発見されたのだという。頭からは血が出ていて、その時は微かに息をしていたらしいが、昏睡状態で、トラック運転手が呼んだ救急車によって病院に搬送されている最中に、息を引き取った。全身に打撲痕があったことから、警察は最初、トラック運転手が歩を撥ねたのではないかと疑ったが、現場検証によって、歩が神社の石段の上から転落していたことが分かった。

「なんで歩くんが神社に行ったのか、心当たりはある?」

 両親から、翌日の朝に訪ねてきた警察から、同じ質問をされた。俺はそのどちらにも、

「……分からないけど、歩はもしかしたら、階段で朝練をしてたのかもしれない。それか、神社にお賽銭を持ってちゃんとしたお参りをしに行ったのかもしれない。マラソン大会で一位になれますようにって」

 と、答えた。前日に神社の石段で二人で特訓をしていたことと、お賽銭無しでお祈りをしたことと、当日に寝坊助の歩が珍しく早起きして家を早めに出ていたことも含めて。

 両親も警察も、重苦しい表情を浮かべながらも、納得していた。両親からは、近寄るなと言われていた神社で特訓をしたことを怒られるのではないかと思ったが、父も母も息を詰まらせたような顔で押し黙るばかりで、何も言われなかった。

 警察が帰った後、家族全員で歩の家に行った。たまに遊ぶこともあった客間の和室に、歩は寝かせられていた。本当に死んでいるのかと思うほど、綺麗な顔をしていた。まるで、すやすやと眠っているかのようだった。

 その歩に、歩の母親が取り縋って泣いていた。その横で、歩のおばあちゃんが泣きながら、来客の応対をしていた。

 俺は怖くて、何も言うことができなかった。

「あんたのせいで歩は死んだんだ。あんたが前の日に神社に誘ったせいで、歩は死ぬことになったんだ」

 そんなことを言われるような気がしたからだ。

 でも、歩の母親もおばあちゃんも、俺に何も言ってこなかった。

 真意は分からない。もしかしたら、俺を罵倒したかったのかもしれない。俺が十二歳の子供でなかったら、罵倒されていたのかもしれない。

 でも、俺は二人から涙に濡れた悲しい目で見つめられただけだった。

 そうこうしている内に、小学校の担任の先生がクラスメートを引き連れてやってきた。その中には当然、美里もいた。美里は夜通し泣いていたのか、目が腫れていた。

「……もし、良ければ」

 そう沈痛な面持ちで言う担任の先生の手には、金メダルが握られていた。そして、表彰者の名前を書いて括り付ける布地の名札を、

「翔。親友だったお前が書いてやりなさい。その方が、きっと歩も喜ぶと思う」

 と、俺に差し出してきた。俺は震える手でそれを受け取り、マジックペンで小さい頃からずっと一緒だった幼馴染の名前を書いて、金メダルの首掛けリボンに括り付けた。歩のおばあちゃんが泣きながらそれを受け取り、歩のお母さんが泣きながら、

「あっ、歩っ、金メダルだよっ……ほらっ……金メダルだよおっ……」

 と、震える手で歩の首に金メダルを掛けた。その場にいた誰もが泣いていた。俺も涙が止まらなくなり、和室の隅で座り込んでグズグズと泣いた。その日、どうやって家に帰ったのかは覚えていない。

 次の日、歩の家で葬式があった。客間の和室に祭壇が設けられていて、小さくて質素な棺桶の中に、歩は花に囲まれて横たわっていた。やっぱり、すやすやと眠っているようにしか見えなかった。

 俺は泣き過ぎてもう涙が出なかったが、最後の最後、歩の母親とおばあちゃんに、

「……お願いだから、少しの間でいいから、二人きりにしてくれませんか」

 と、頼んだ。歩の母親は相変わらず、ずっと泣いていたので、おばあちゃんの方が、「いいよ」と許可してくれた。でも、おばあちゃんも、ずっと泣いていた。

「……歩、お前……歩っ、お前っ……なんでっ……なんでなんだよっ……」

 二人きりになると、自然と口から零れた。枯れるほど流したはずの涙も溢れた。

 どうしようもなくなったが――やがて、俺はどうにか歩に最後の別れの言葉を告げた。




 それから、俺は中学二年生の頃に家庭の事情で隣の県に引っ越すまで、一度も歩の家を訪ねることは無かった。歩の母親とおばあちゃんと対面することも、話をすることも無かった。

 無論、家は近所なので、遠巻きに見かけたり、すれ違うことくらいはあった。向こうから、会いたくないとか話したくないとか言われたわけでもなければ、他の誰かから、会いに行くなとか話をするなとか言われたわけでもなかった。

 でも、俺は自分から歩の家に行こうとか、歩の母親やおばあちゃんと会って話をしようとは思わなかった。

 怖かったから――いや、勇気が無かったからだ。残された歩の家族と対面することが。

 引っ越してからも、元の家に戻る機会が無かったので、歩の家族に会うことは無かった。だから、残された歩の家族がどうなったのかも知らないし、知ろうともしなかったし、知る勇気も無かった。

 ただ―――。

 あれから十五年。大人に成って、色々なことに疲れてしまった俺は、ふと思い出したのだ。

 あの金メダルは、あの日の金メダルは、どうなったのだろう、と―――。

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