第22話 夫婦喧嘩は犬も食わない

「ローレンの伯爵? 俺だが――」

 と、鷹揚な口調で振り向いたクレイが固まり、彼女の姿を見たリーグルはにこやかに女を迎えた。

「美しいご婦人。はクレイ伯爵領を預かる事になった司教のリーグル=ラ=イングリッドです。以後お見知りおきを」

すぎんだろぉ……こりゃ口説かなきゃ男が廃るっ」

「クレイ、口説くな」とリーグルが釘を刺す。

「知り合いかい、伯爵さん」とトムス。困惑しているようだ。

「今知り合ったばかりだ!」

 クレイが鼻息荒く息巻く。

 男性陣のそれぞれの賛美を聞きながら、女は微笑んだ。褐色の肌を惜しげなくさらし、豊満な肢体をタイトな衣装に包んでいる。胸元の開いた服を穴が開くほど(穴は開いているのだが)見ているクレイが、女の低い声に問われた。

「ローレンの伯爵は、おまえか。ふむ」


 女は赤い髪を垂らして屈み――というのも、クレイよりも身長が高いからであるのだが――切れ長の緑の瞳でその頭からつま先までを検分すると、一言、低い声で、


「聞いていたよりバカそうだ」

「へ?」

「話にならない。ルシウスを呼べ」


 そう告げた。

「る、ルシウス? またなんで――」

 全てスルーされたリーグルが困惑の声を上げる。

 肌よりも薄い色をした唇が不敵に笑む。

「ルシウス。だ」

 女は左手をかざした。左手の薬指に指環をはめるのは婚姻の証。そこに指環が嵌まっている。

 銀の台座に紫の宝石をはめ込んだ指環だ。

 その場が、冬でもないのに、すうっと冷え込んだ気がした。男たちの意気消沈に気づかない美女はからからと笑うと、指環を眺めてしばし考えた。

「私の名前は、……そうだな、ファーラとしよう。ファーラだ。よろしく、クレイ伯爵。リーグル司教」




「伴侶って何伴侶って何」

 目を血走らせたリーグルが殴りかからんばかりの勢いでルシウスの胸ぐらをつかんで揺すっている。さっきから小一時間ほどその調子なので、そろそろヒルダはリーグルの頭をもう一度ひっぱたく。


「リーグル、離れて」

「ヒルダに続き美女の伴侶までいてこんなことあってたまるか! ……この僕が男として誰かに遅れを取るなんてあってはならない……あってはならない……」

「ぶつぶつうるさいよリーグル。で、……は、何しに来たの」

「恋だ」

 左手の指環をきらめかして、ファーラはにこやかに答えた。

「あれから寝ても覚めてもルシウスの事ばかり考える。どうしようもなくなったので顔を見に来た。ついでにお隣さんにご挨拶をと思って、ローレンの伯爵殿にご挨拶を」

 そのローレンの伯爵になる男は「人妻ショック」で魂が抜けたように体育座りで酒場の隅に居る。哀れだ。

「重傷ですねえ」とヒルダは冷めた声で言った。

 もはや彼女に対する警戒心はゼロだ。わざわざ姿を変えてまで、そしてその指に担保の指環をはめてパフォーマンスまでするおちゃめな女が、人間を害しにきたとは到底思えなかったからだ。

「恋愛とか私はわからないけど、ルシウスはどう? 奥さんとのこと」

「ヒルダ! お前まで奥さんとか言うな! 俺はそういうことには全く興味が無いと言ってるだろうファーブ、」

 ファーラがルシウスの口を塞いだ。

「それは内緒だ、ダーリン」

「ダーリンじゃあないんだよダーリンじゃあ!」

 ルシウスが頭をかきむしりながら言った。

「ヒルダ、助けてくれ。何でもいいから、助けてくれ」

「無理。人の恋路を邪魔するやつは馬に蹴られて死んでしまえっていうじゃない」

「なんだそれは!」

「私の前世の世界のことわざ」


 それに相手はファーブニールだ。ヒルダを含めて、誰にも邪魔なんかさせないだろう、とヒルダは思う。

「ファーラは悪い人じゃないよ」

「良いも悪いもあるか、担保の指環をこんなことに使って」

「悪い人じゃないよ」

 ヒルダはルシウスの乱れた髪をさりげなく直した。

「悪い人だったらもっと悪いこと考えるもの。違う、ファーラ」

「契約士の言うとおりだ。私とて女、もっと悪いことも考えるさ」

 ファーラの腕がルシウスに絡みついた。伏せられた長い睫毛が語る。


「この情念ひとつでお前以外の世界をすべて滅ぼす事もできる」


 ルシウスが情けない顔でヒルダを見上げた。

「助けてくれ、ヒルダ」

「無理。甘んじて受け入れて」

「こんなのは契約にはない」

「逆に言うとあの契約は今の彼女の行動を縛るものではないし」


 ルシウスががっくりうなだれた。ノックアウトKOだ。


「ところで」

 ヒルダはルシウスにくっついているファーラに訊ねた。

「挨拶に来たってのは建前で、……それだけじゃないんでしょ?」

「さすが契約士」

 ファーラは目を開くと、あたりを見回して、ルシウスの腕を抱いたまま、ヒルダの手首を握った。

 酒場の喧噪が遠くなる。


《……私は基本的に、人間を信じていない。だから、おまえの【念話】を使わせてもらう》

 唇を閉ざしたままのファーラは、ルシウスにもその言葉が聞こえていることを確かめてから、こう続けた。

《酷く嫌な予感がしている。……嵐の前の静けさを感じる》

 嫌な予感? ヒルダが目を見開くと、ファーラはこうも続けた。


《はるか遠くから、殺意が伝わってくる。何かがここに来る。私を狙って、何者かがやってくる。そんな気がする》


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