第9話 ルシウスの、ほんとう。

「ルシウス……?」

 ファーブニールは首をのけぞらせた。ヒルダは尻餅をついたような姿勢のまま、両者の睨み合いを見つめるほかなかった。

「ヒルダ、十秒経ってもこいつが動かなかったらお前は後ろを振り返らずに逃げろ」

「な、何言ってんの!」

‼」

 声音からびりびりと伝わってくる圧力が示す。


 彼は魔族だ。


 十。

 和平文書を送り届けるために旅をした三年間、魔族に手を掛けなかったかと言えば、嘘になる。最初に脳裏をよぎったのは、そうした過去のことだった。


 九。

 ヒルダはゆっくりと立ち上がり、からだにまといついている砂塵を静かに払う。ルシウスが腰から何か魔道具を取り出した。閃光弾。


 八。

 ファーブニールは、動かない。ルシウスが、閃光弾を握りしめる。


 七。

「ルシウス――」


 六。五、四、――。

 ルシウスは、このまま戦うつもりなのだろうか?

 ヒルダは迷っていた。このまま逃げるか、残るか、それとも――


『おまえ、もし出会っても、テイムしようなんて考えるなよ。死ぬぞ』


 三。

 ヒルダは目を閉じる。意識を集中する。


 二。

 ファーブニールの存在を認知する。ドクドクと脈打つ、拍動はくどうが聞こえる。


 一。

 ルシウスが何かを仕掛ける前に、ヒルダは訴えた。

――お願い。殺さないで。私達はなにもしない。私達はあなたを害さない。

 賭けだった。


 刹那、ドラゴンの唸り声が静寂を裂いた。彼女は両翼を上げ、ふわりと浮かび上がると、高く高く舞い上がり、西の方角へ首を向けた。

「は、あはは」

 ルシウスが笑い出した。緊張の糸がぷっつり切れたらしい彼は、地面に座り込んで腹を抱えた。彼の手元から閃光弾が転がった。

「あはははは! 生きてる! はは、ははは!」

「ルシウス……」

「魔族のの威嚇でも、なんとかなるものだな……!」

 ルシウスは外套を脱ぎ捨ててのびをした。命を賭けてヒルダを守ろうとした背中には、やはり右側だけ翼が生えていた。

「なりそこない?」

「……のちのち障壁になるだろうから、もう少し黙っておくつもりだったんだが」

 ルシウスは振り向いた。紫色の瞳の右側だけ、白目が黒く染まっている。

「俺は魔王の側女そばめの子だ。その側女は人間の捕虜だった。混血だ」

「そうなんだ」

「おまえ、淡泊なやつだな」

「まあ、……ある程度予想してたっていうか。だって、和平の象徴としての都市を築くのに、人間だけで作るのも変な話だよ」

 ヒルダは指先に未だ残っている背骨の形を思い起こした。あれはやはり、人間のものではなかったのだ。

「魔族はモンスターの肉を好んで食べるし。それに、あんたはミルク、牛の乳を知らなかった」

「魔族に育てられたからな。習慣はむこうのものだ。だが、肉体は同胞に遠く及ばない。お前への【呪縛】も完全には働かなかった」

 魔族が使う【呪縛】は、テイマーのテイムによく似た性質を持つが、魔法であり、文字通りの呪いであるため、根本的には違うものだ。ヒルダは頬を掻いた。

「私、魔族の【呪縛】には耐性があるほうだから、それでかも」

「慰めはいい。魔法も使えなければ空も飛べない、顔ばかり魔王の血を継いだ、まがいものさ、ほら、笑えよ、はは、あはははは」

 ルシウスはまだ笑っていた。よほどファーブニールと相対したことが堪えたらしかった。ヒルダはなんと言って良いか分からなかった。


『転生天才テイマーのヒルダ』

 あのとき、ルシウスはどんな気持ちだったんだろう。


「はは、はあ。……生きてる」

 震えが止まらない大人の手を、ヒルダは静かに見下ろした。ここでジャスミンなら「大丈夫よ」と言ってなだめるのかもしれない。けれどヒルダは、空を見上げて見ない振りをした。


「ルシウスの秘密を知っちゃったから、私の秘密も教えてあげる」


 ヒルダは彼の後ろに背を向けて座った。わずかふれる背中はまだ震えていた。

「八才の時に、家から追い出された……、いや、売られたって言った方が正しいかな? 分かんない。私は、十四人きょうだいの一番末っ子だった。それで、昔からテイムができた」


 末娘のあやつるそれがテイムだと知った時の、両親の喜びようといったらなかった。あれよあれよとヒルダは家を出される準備を施され、早々に野良ギルドへ所属することになった。テイマーという値札をつけられた商品として。


「九才になるまでは、泣いてばっかりいた。九才の誕生日、誰にも祝ってもらえなかったときに、やっと諦めがついたかな。もう家族じゃないんだって。そんなときに……思い出したんだ。私、別の世界で一度死んだんだ」

 死因は──とにかく、不本意な死に方をしたのは分かった。逆に、ヒルダ――「私」にとっては、それが分かっただけで十分だった。

「そのときの私には恋人もいなかったし、家族とも折り合いが悪くて一人だったから、好きなように生きて好きなように死んでいくはずだったんだけど、なんかね、そういう人生が、途中で途切れちゃったことが予想以上に悔しかったみたいなんだ」

「悔しい?」

「そう。こんなところで死ぬんだったらもうちょっと遊べば良かったなぁって思ったことだけ覚えてる」

 ヒルダはそこでようやくルシウスを振り返った。彼の瞳は元に戻っていた。元のとおりの、彫像のような美しい顔がそこにあった。

「神秘に満ちた、異世界転生者のいきさつなんかこんなものだよ」


 いつのまにか、ルシウスの震えは止まっていた。


「それでできあがったのが、やたら淡泊で余裕ぶってる十二才か、なるほどな」

「荒波にもまれて生きてきましたから!」

 ヒルダは立ち上がって、ルシウスに手を差し伸べた。

「最寄りの町に行こう。宿くらいあるよ。……モンスター肉は保証できないけど、なんとかなるでしょ」


 ルシウスはヒルダの手をつかんだ。そして重い身体を引き上げるようにして、立ち上がった。


「まあ、そうだな。その通りだ」







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