第8話 ファブニールドラゴン
瞬時にまぶたの裏を横切る情景、その数百。ヒルダはその中からいくつかの景色をピックアップして、目を開いた。その間、たったの数秒。
「よし」
「どこへ行く気だ」
おもむろに歩き出したヒルダを、ルシウスが追いかけてくる。
「書庫だよ」
二人が
「なんだろこれ。表紙からして読めないや」
表紙を開いて中身を開くと、端の方からぽろぽろと崩れそうだ。ヒルダは慎重に中身をめくったが、何と書いてあるかちんっぷんかんぷんだった。
「魔族の文字とも違う」
「――見たところラーグナーより前の代物だな。文字が古いものだ。魔族と人間がこの平原で対立していた頃の記録だろう。貸せ、……」
ルシウスは黙ってしまった。美しい顔の隅々まで、怒りのような、かなしみのような、マイナスの感情が満ち満ちていた。出会って間もないが、これほどに切迫した表情を浮かべるルシウスは、見たことがなかった。
「……なんて書いてあるの?」
「見なかったことにする」
「なんで?」
「なんでもだ」
ルシウスは元の場所に本を戻してしまった。ヒルダはもう一度手を伸ばそうと思ったが、やめた。ルシウスがあまりにも、
世の中には知らなくて良いこともあるのかもしれない。
「かつてここに住んでいたのは人類軍の軍師か、最前線を任されていた将軍だろう」とルシウスが低い声で付け加えた。
「魔族との争いも長いからなあ」
ヒルダはまた目を閉じた。石鼠たちの視界はまだぐるぐるとあちこちをまわっていた。様々なヴィジョンを借りて検分したが――。
ヒルダはふうと息をついた。さすがに百匹を超えると頭が忙しい。
「この城、どうせなら町作りの拠点にしようかと思ってたけど、無理そうだなぁ。古いし、隙間が多いし、雨風も入り放題だよ。この子たちが空けた穴もたくさんあるし」
石鼠は石に穴を空けて巣を作る小型から中型のモンスターだ。この城塞は彼らがゆったりと暮らすには十分だが、人間がここに長期滞在するのは難しいかもしれない。
「拠点ができるまでは、王都か、最寄りの町まで戻るしかないだろう」
ルシウスは低い声で言った。
「通うしかない」
「もしあんたが王都に戻るんなら、ワイバーンに慣れてね」とヒルダが笑うと、ルシウスは盛大に顔をしかめた。
二人が城塞を出ると、城塞の西のほうからおもむろに突風が吹いた。
「何?」
ルシウスがサッと顔色を変えた。
「――いますぐ地面に伏せろ、ヒルダ!」
「な――?」
にがあったの。と言いかけたヒルダを押し倒す勢いで、ルシウスはヒルダを地面に仰向けに押しつけ、自分も外套を被って姿勢を低くした。事によっては問題なこの姿勢を許容できたのは、視界にとんでもないものが映り込んだからだった。
うろこに覆われた、
巨大な影が飛来し、ヒルダとルシウスを覆い隠す。そしてその鉤爪の足は、城塞の上に軟着陸した。
「ドラゴン……?」
「しっ」
ルシウスの横顔は深刻そのものだった。「あいつら、事によっては人型でも食う」
「まあ、ワイバーンの巨大種と考えれば妥当だよね」
「言ってる場合か!」
ドラゴンは赤いうろこをつやつやと光らせながら、城塞の巨大な穴に頭を突っ込んで、数匹の石鼠をむしゃむしゃと食べ始めた。それを見たルシウスが、
「こいつ、ここで食事してたのか……」
「……ルシウス、あんたひょっとして、このドラゴンがいること、知ってて黙ってた?」
「お前が何でもかんでもテイムするアホだったときのために伏せていた」
ヒルダはむっとしたが、あえて何も言わなかった。……あり得ない話ではなかったからだ。
ドラゴンが食事を続けている。ルシウスが言った。
「この遙か西に、崖がある。ドラゴンが巣を作ってる」
「どれくらい西かな。見てみるか」
ヒルダは目を閉じたが、すぐに目を開けた。
「だめだ、この土地、それらしい鳥がいない」
「天敵が居るんだから居るわけないだろ」
そんなささやきあいをしていると、ヒルダの目と、顔をあげたドラゴンの緑色の目が不意にかち合った。
「あっ」
瞬間、ヒルダの中に一瞬だけ、何かの残滓が流れ込んでくる。
『――を信じるな』
「る、ルシウス」
こんなことは初めてだ。初めてだった。モンスターと目を合わせただけで何かが伝わってくるなんて。ヒルダは身を固くし、上半身をわずか起こした。
『人間を信じるな!』
「ルシウス!」
異変を察したルシウスは身を翻して、腰の短剣を抜き放ち、ドラゴンに対峙した。
「チッ、ファーブニールには関わるなって言われてたのに!」
「ファーブニール……?」
それは、伝説のドラゴン?
ゴオオオオ!
ドラゴン、否、ファーブニールが高く咆えた。ルシウスは姿勢を低くして、風もないのにぶわりと外套を広げた。その下から生えているのは――
「
黒い片翼。たからかな異国の言葉がヒルダの鼓膜を揺らした。
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