第4話 食べること生きること
「待って、ええと、なんだっけ、――ルシウス!」
王都の雑踏に踏み出して、ヒルダは背の高い男を早足で追う。彼の歩みはゆったりしているのに、歩幅が広いからか、ヒルダの足ではとても追いつけない。「行くぞ」と言ったくせに置いていくつもりなんだろうか。
ヒルダはむっとして、声を張り上げた。
「待って! 待ってよ!」
思い切って駆け足に切り替えて人を避けていく。しかし、タイミングを誤って、前から来た大荷物のご婦人としたたかにぶつかってしまった。
どんっ!
ご婦人の籠の中から赤い果実がごろごろと転がり落ちていく。
「すっすみません!」
「ちょっと! なんなのよ!」
「すみません、急いでいて……」
「これ売り物なのよ! 勘弁してちょうだい!」
「すみません!」
ヒルダは人通りの多い路地に這いつくばって、ひとつひとつ果実を拾い上げていく。しかしとても追いつかない。踏まれるほど小さな果実ではないけれど、蹴られたらひとたまりもないだろう。
うう、あのよく分からない美形のせいで人様に迷惑を掛けてしまった……。と、ヒルダに泣きが入りかけた時、聞き知った声が鼓膜を震わせた。
「手を貸しましょうか?」
ヒルダが顔を上げると、簡素な司祭服を身に纏った、これまた顔のいい男がご婦人をのぞき込んで、にこやかに語りかけていた。聞き覚えがあるどころの話ではない。
「リーグル!」
「ああ、ヒルダ。奇遇だね。僕はいまこちらのお嬢さんが困っているようだったから手伝いを申し出たところだったんだけど」
リーグルが手を広げる。指先に光がともり、緩やかに明滅する。すると道のあちこちに転がっていた果実は宙を舞い、列を成してご婦人の籠の中に吸い込まれていく。
「なに、君がぶつかったの?」
ヒルダの腕の中の果実もふわふわと浮かんで籠におさまった。リーグルは呆れたように言う。
「ごめんなさいは言った?」
「言ったよ! あんたが言うほど不躾な人間じゃないんだけど!?」
リーグルは女好きだ。女好きだが、子供は嫌いだ。要するに、ヒルダのことを子供扱いしている。
「すみません、前も見えないバカな子でして。あとでうんときつく言って聞かせます」
とリーグルが謝罪する間、ご婦人はリーグルの良い顔にぽーっと見とれていて、からくりの人形のようにこくこくとうなずきを繰り返すばかりだ。ヒルダはがっくりうなだれた。緑色のツインテールが耳をかすめた。
「もう、バカバカってうるさい! リーグルの性悪!」
「何とでも言えばいいけど、子供は大人の言うことを聞くものだよ」
「うるさーい!」
うるさい! としか言い様がない。まだ自分だってたった十九才のくせに。ヒルダの前世の方が年上だ。
「お嬢さん、目的地まで送りましょうか。また子供とぶつかったりしたら危ないですし、ね」
リーグルは籠をご婦人からさっと奪い取ると、彼女と連れだってさっさと歩き去った。いちいちイヤミで子供っぽい男だ。ヒルダは盛大に舌打ちをし、そして気づいた。
ルシウスを見失ってしまった。
「ああもう!」
一人で苛立つヒルダをよそに、人はおのおのに流れていく。流れ、すれ違い、せめぎ合う水が合わさって流れるように溶け込む。
仕方なく、ヒルダはすっと目を閉じた。
「……二十三か。上々」
数をつぶやき、自然体のまま、誰へともなしにそっとささやく。
「手伝ってくれる?」
次の瞬間、ヒルダの周囲から音が消えた。二十三のヴィジョンがヒルダの頭の中を同時に駆け巡る。しばらくして、ヒルダは目を開いた。
「よし」
少し経って。
「なんでここがわかったんだ」
とルシウスは言った。あの「美」を体現したかのような超絶美貌がはっきりと驚いているのがわかったから、ヒルダはちょっと胸を張って、腰に手を当てた。
「なんたって天才テイマーですから」
今回テイムしたのは
「ありがとう、みんな。あとでおいしいお肉をごちそうしちゃう」
肩に留まった一羽の黒鴉を指でくすぐると、かれはヒルダに頭をすり寄せて飛び去った。
一連の流れを見ていたルシウスは、小さく息を吐いた。
「まあからくりは何でもいい、座れ座れ」
「もう夕食?」
「悪いか」
「モンスター肉料理専門店」の看板を見上げて、ヒルダは肩をすくめた。
「私は食べるの遠慮しようかな」
「食わないのか」
ルシウスは意外にも、意外そうな顔を見せた。この超絶美形は、リーグルと違って表情豊からしい。
「うん、モンスター肉は食べないことにしてるんだ」
「……俺は容赦なく食うぞ」
「気にしないで、私の気持ちの問題だから」
やがてワイバーンの肉が骨付きで運ばれてくる。ルシウスは手袋をはめたままの手で、それを綺麗にナイフで切り分けた。
「はぐれたときはどうなることかと思ったが、まあ、……よかった。使い物にならないテイマーと組むなんてごめんだからな」
ルシウスは険のある言葉を使ったつもりだろうが、リーグルに慣れているヒルダにはあまり響かなかった。
「私は使えるテイマー?」
ルシウスは嫌そうな顔をした。
「……自分でなんだかんだ言っておきながら、何をいまさら」
「あはは」
ヒルダはやはり、ミルクを頼んだ。牛の乳。
ルシウスはその繊細な外見に似合わず、肉をがっつりと頬張り、豪快に咀嚼した。ヒルダは向かいでミルクを飲みながらそれを見守った。
食事の態度に人が出ると言ったのは、ジャスミンだったか。それとも前世の誰かだったろうか。とにかくその人はヒルダ――前世の私にとって師匠のようなものであって、母親のような人でもあった。
ルシウスは意外と食べ方が豪快だ。頬を膨らませ、片側だけで頬張る。だけど、肉を切り分けるときに白手袋を汚さないくらいには器用だ。そして、口元にソースや食べかすがついていない。
なるほどなぁ。
「ねえ、ルシウス」
「……――なんだ」
口の中のものを飲み込んでから、ルシウスは答えた。
「町づくりって何からすれば良いと思う?」
「わからん」
だよなあ。
ヒルダが一人でうなだれる向かいで、ルシウスは続けた。
「我々は気づいたらここにいた。ここにいて、生を営んでいた。……何が先にあったのかはわからない。やってみるしかないだろう」
「……そうだね」
なんと言ったって、王命。
背けば悪くて死罪だ。
「……明日、ローレンの城塞を見に行こうと思ってるんだけど」
「俺もそうしようと思っていた」
ならば、話は早い。
「じゃあ、私は宿屋に戻るよ。明朝、六時にここで会おう」
「わかった」
ヒルダはミルクの対価を置いて席を立ち、その足で肉屋に走った。手伝ってくれた黒鴉二十三羽に約束した干し肉を仕入れるために。
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