第二章 綾桐深心の諸事情

第6話 あの子と私


私が透明人間になったら、どれだけの人が喜ぶだろう。

ふと、そんなことを考えるようになった。

 

 どうして、いつから、こういう思考が当たり前になってしまったのか、自分でも分からない。いや…分かりたくないだけか。

 原因が分かって、誰かのせいにできたとして、結局は自分が悪いだろうから。


 …あ、自己紹介が遅れちゃった。

改めて、私は綾桐あやきり深心みこと。神田君の言う通り、1年の時は保健室登校だった高校生。


 好きなものはシュークリーム、音楽。

 趣味は読書。断然インドア派。あと、少しフルートを心得ている。

 

 出だしがこんなだからもうお察しかもしれないが、私は人付き合いが全くと言っていいほどできない。過去のせいでもあるけれど、自分の興味を強く引いた人か、余程心を開いた人でなければ、基本自分から話しかけに行くことはしない。


 神田君はその稀な前者の1人だった。

あの時の彼の他意のない真っ直ぐな眼差しと、咄嗟に差し伸べられた手。


「ああ、この人は「優しさ」が何であるかを、生まれた時から理解しているんだ」

 そう思わずにはいられなかった。


 神田君と話すうちに、学校に行きたいという純粋な気持ちを、久しぶりに思い出した。彼の為人ひととなりに触れるほど、彼への興味が膨れ上がっていく。

 そんな浮ついた日々に浸る私は、いつしか自分のブレーキを緩めすぎていた。いくら自分が話したいと思ったからって、相手もそう思ってくれるとは限らない。そんな当たり前の事を忘れていた。


 私は、彼の純度が高すぎる優しさに、甘えすぎていたのだと思う。だから、神田君はあんな風に私を遠ざけて正解だった。


 そして。


神田君に、転校生のことは嘘だと気付かれた。

「あの子」にも、怒られた。


 「あの子」は私を嫌っている。対して私は、彼女には何の感情も浮かんでこない。彼女が「邪魔をするな」と言えば、一応私は邪魔しないように努めるのだけど、それすら彼女の激情の火に油を注ぐらしく、結局どうしていいか分からない。距離を置けば詰めてでも攻撃し、私が何もしていないつもりでも、何かしら気に障るという。


 どうして、放っておいてくれないの。

 どうして、私をそんな風に蔑むの。

 どうして、そんなに私を嫌うの。

 どうして、嫌いなのに私に構うの。

 どうして、可哀想なふりをするの。

 どうして、どうして、どうして、どうして…


 考えるのも、疲れた。

とにかく私が悪いのだと結論付けなければ、安心できなくなってしまった。


彼女に張られた頬は、痛みの信号を発することすら怠惰になっている。


…もう、どうでもいっか。

 

力なくその場にへたり込むと、後ろから慎重な足音が聞こえた。


 足音は私から少し離れたところで止まる。

声はかからなかった。その方がありがたかった。

問いただされたり、出会った時のように心配されても、困ってしまうから。


 『…綾桐、さん』


名前を呼ばれた。

無視するのは彼に申し訳なかったけど、反応する気力も残っていなかった。


 『…ごめん』


彼の口から発された言葉に思わず振り返りそうになる。


どうして、神田君が謝るの。

悪いのは、謝らないといけないのは、全部…私なのに。


 彼は私の横を通り過ぎて階段を一番下の段まで降りると、くるりと振り向いた。ゆっくり視線を上げると、彼と目が合う。初めて出会った時と変わらない、澄んだ水面みなものような瞳が、私をはっきりと映した。


 私を置いて、教室へ帰ればいいのに。


私が彼のことについて踏み込み過ぎたのも悪いけど、神田君の拒絶は思っていたよりも悲痛な叫びに聞こえた。


 「これ以上僕に近づくな」と言っているみたいに。


 それでもなお、私の名前を呼んでくれて、挙げ句最初にかけられた言葉は謝罪だった。きっと彼の中では、彼自身が隠したい秘密への感情と彼の本能のような生粋の優しさとがぶつかって、絡まって、どうすればいいか分からなくなっているのだろう。


 しばらくして、神田君が何か言おうと口を開きかけた瞬間、彼の目から光が消え、すーっと後ろへ倒れていった。体は反射的に動いていた。何とか抱き止めたところで、彼が突然気を失ったことよりも、彼の意外にも華奢な体躯に驚く。


 私より少し高い背丈に、男子にしては細めの腕。

何かしらの秘密を抱えるには、大きさに関わらずいつか押しつぶされて、引きずられちゃうんじゃないかと思ってしまうほど、どこか頼りない感じが拭えない。

 同じくらい貧相な私が言えたことではないけど。


 普通、こういう時って焦るんだろうけど、何故か私は冷静だった。脈拍は落ち着いているし、貧血か寝不足か…。でも、彼をここから保健室まで運ぶのは無理があるし、この状況が教職員に知られるのは避けたい。


 抱きかかえたままでいる訳にもいかず、彼を側の壁にもたせかけ、私は隣に座った。途中彼の頭が私の肩に乗ったけど、気にせずそのままにしておく。


 彼は、自分は恋愛を「しない」のではなく「」と言った。

彼ほど優しさと痛みの本質を理解している人が、他にいるとは思えない。恐らく、いや絶対に、人としてではなく、神田君を取り巻く諸事情のせいなのだろう。

 …ということは、だ。神田君は自分がもしできるなら、恋をと少なからず思っている事になる。その厄介な諸事情を全部取り払えたら、彼は自分ずっと一緒にいたい相手を選び、笑い合うことができる。


 羨ましい。

そう一瞬でも思ってしまった自分に腹が立つ。


 私は選択をした。

全部、誰にも迷惑をかけないために。「あの子」の気分を害さないために。

結局は、よく分からない理不尽な理由で自分が傷つかないために。

 私が笑うと、「あの子」は怒る。

 私が泣くと、「あの子」は怒る。

 私が無表情だと、「あの子」は嘲笑し、また怒る。

いっそ、仮面でも被れたらいいのに。


被ろうとしたこの手を、神田君は止めようとした。


 「ねえ、神田君」

小さく彼に声をかけてみる。勿論、返事はない。


 「…ずるいよ」

長い間を置いて、零れ落ちた一言がこれだった。


 「君も…私も、ずるい人だ」

彼には届かない、私のささやかな文句。意味のない抵抗。


 「ハリネズミでも、ヤマアラシでもないのにね」

右肩にかかる確かな重みに安心して、近づきすぎた距離感で不安になって。


 「             」


瞬きを一つ、微温ぬるい雫が頬を伝う。

雫と共に下ろした瞼の裏は、心地よい闇が広がっていた。


その闇にゆっくりと身を委ねる。


 「おたがいさま、か」


窓から差し込む陽だまりに、まだ今は昼休みであることを思い出させられる。

でも私と彼を包む空気は、いつも曖昧で、脆くて、綺麗で、ゆらゆらしている。


ずっと黄昏時に入り浸っているみたいだ。

互いに自分のを隠して、宵闇に紛れるのを待っているみたい。


誰にも見つからないように。

誰も傷つけないように。


もう誰にも、惹かれずに済むように。



もう一度、来なくなれば良いのかな。

誰かの見間違いだったんだって、気づかないふりしてもらえるかな。

「あの子」にも、ゆるしてもらえるのかな。

























…そうしたら「あの子」も、これ以上人を傷つけずに済むのかな。

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