第5話 恋愛不適合者、人の過去に触れます
あの屋上での一件以後、最近は鳴りを潜めていた症状が次々と現れ始めた。
精神状況は体調に現れると言うらしいが、自分では平常心を保っているつもりだ。何ならいつも以上に冷静だと思う。
なら、何が僕をここまで動揺させているのだろう。
現れた症状も今までより軽いものの、だいぶ質が悪いものばかり。
触覚を失くした代わりに動物の言葉が分かったり(案外しょうもない話だった)、声を失くした代わりに蝙蝠みたいに超音波を出せるようになったり(偶然役に立ったけど)、実はどうでもいいようで、いざという時にないと困る体の機能が、その「いざという時」にぱったりと使えなくなった。
そして、席替えをしても隣の席のままだった綾桐さんは、意外にもというべきか、当然というべきか、態度がよそよそしくなった。
無理矢理自分から他の女子に話しかけに行くようになった。しかし、会話が弾むと言うにはまだ遠い。僕は、自分から彼女を突き放し、剰え泣かせるような事を言っておきながら、この数日間の彼女の急な変化に
「…ねえ、神田君。大丈夫?」
授業での班活動(綾桐さんは別の班だった)。
余程眉間に皺が寄っていたのか、同じ班の佐伯さんが心配そうに僕を見ている。
いかんいかん。人前で眉根を寄せては、人格を疑われかねない。さっと表情を立て直して、心配には及ばないことをアピールしておく。
「大丈夫大丈夫!全然…問題ないよ。少し考え事してて…」
「そっか〜!てっきり具合でも悪いのかと…大丈夫なら良かった!」
そう言って本当に心からの安堵の笑顔を見せてくれるので、僕も心が和む。
そういえば佐伯さんは、最近綾桐さんがよく話しかけに行く女子の一人だ。二人が一緒にいるのを一番多く見かける。…何か僕が知らないことも、知っていたりするのだろうか。
「あのさ、ちょっと聞きたい事があるんだけど」
急な小声に何か察知したのか、佐伯さんはきゅっと僕との距離を詰めた。
「その…転校生の綾桐さんって…」
「え?綾桐さん、2人もいるの?」
2人?いや、僕が知る「綾桐さん」は「綾桐深心」ただ一人…のはず。
それに、珍しい苗字だから2人もいれば僕でも気がつく。
「えっと…どういう意味?」
思わず聞き返した。
「同じクラスの子でしょ?私、1年の頃から同じクラスだよ」
1年の頃から?…そんなはずはない。彼女は転校生だ。
しかし、佐伯さんの次の一言で、僕の頭は混乱の渦に突き落とされる。
「あれ…?綾桐さんは転校生じゃないでしょ?」
僕の脳内が?で埋め尽くされる。
転校生というのは彼女自身が言っていた事だ。なのに、転校生じゃない。
...綾桐さんは嘘を吐いたのか?
困惑が伝わったのか、佐伯さんの顔にも怪訝な表情が浮かぶ。
「…何かあったの?」
「1年の頃の綾桐さんのこと、詳しく…教えてくれる?」
自分でも吃驚する位慎重な声に、佐伯さんは不安げな眼差しで僕を見た。
本日数十度目の溜息をつく。佐伯さんの話は彼女の話し方もあってか、嫌なほど納得してしまった。
綾桐さんは、1年の頃不登校だったという。
とは言え保健室登校で、定期考査も別室でちゃんと受けていたらしい。しかもずっと学年1位。それこそ才色兼備な彼女だったが、入学して1週間後、突如教室に来なくなった。いじめの噂もあったりして、謎が多いまま1年を経た。
そうして2年生になり、偶然出会った僕に、彼女は転校生だと名乗った。
無論彼女を見たことがなかった僕は、何の疑いもなくその嘘を信じた。綾桐さんがなぜ嘘をついたのか。散々振り回された身からすると、理由くらいは知りたい。
しかし、今の僕に彼女の過去を知る資格はきっと無いだろう。
「その噂でいじめの主犯だった子の名前は流れてないの?」
できるだけ多く情報を得ようとして質問を続けたが、流石にこの質問には答えづらいようで、彼女は眉根を寄せた。
「私…あまりそういう話題に関わらないようにしてたから、詳しくは知らなくて…」重い話題に、少しあどけなさが残る唇がそれ以上言葉を紡ぐことはなかった。
翌日の数学の授業中、僕は綾桐さんにメモを送った。
『突然ごめん。話したいことがあります。お昼、弁当を持って屋上に来てください』
…正直、ダメ元だ。でもそれ以上に、彼女ともう一度向かい合って話したいという思いが、僅かな希望を抱かせる。4時限目が終わり、僕は早足で一足先に屋上へ向かう。
一応『分かりました』と返事をもらったけど、それでも急がずにはいられなかった。
屋上の扉を開けると、太陽が燦々と照りつけていた。
一歩踏み出せばこの先は地獄だぞ、とでも言いたげにくすんだコンクリートの地面が照り返す。その地獄へ踏み出すのは何となく嫌で、階段の踊り場で待とうかとドアノブに手をかけた瞬間、ドアがぐい、と引っ張られた。
「「…あ」」
綾桐さんだった。暫く目があったまま、僕らは動かなかった。いや、動けなかった。ばっちり目が合い、段々と気まずさが濃度を増して、目の逸らし方を忘れた。何故かこの気まずさを悪くないと思った時、先に彼女が動いた。
「…話って?」涼やかな二重が此方を見つめる。
「その…この前の事、謝りたくて。あの事を深入りされたことがなかったし、ついかっとなって…あんな物言いをして、本当にごめん」
彼女の話を聞くには、まず僕から謝らないといけない気がした。少し間をおいて、落ち着いた返事が返ってきた。
「…私の方こそ、踏み込むような話をしてごめんなさい。…ところで、本題はこれじゃない…違う?」
「どうして…」
舌を巻きつつ、平然を装って聞く。
「お昼を持ってこさせてする事って、まさか謝罪ではないでしょう?」
本人が気づいているなら、単刀直入に言ってしまおう。躊躇っていてもこればかりは仕方がない。
「…じゃあ、僕に吐いた嘘について説明してもらえるかな」
咄嗟に彼女の視線が僕から逸らされる。
「何の、事?」
激しく動揺している。
このとき僕は、聞きたいという興味より、聞かなければという義務のような責任のような、決して軽くはない何かを感じた。
「…君は転校生じゃない。1年間、教室で誰の前にも姿を現さなかっただけ…そうだろ?」
彼女は俯かなかった。ただ僕の方をじっと見て、口元をきゅっと結んだまま、何も言わず、虚ろな目をしていた。構わず続ける。
「君の心に土足で踏み込むことになるのはお互い様になってしまうけど、それでも…噓の理由だけでも知りたい」
虚ろな目に薄く潤いが宿る。
引き結ばれた口から、本音が溢れそうになっている。
彼女の中にある、今まで誰の目にも触れず、密かに朽ちる事を待つ脆い感情。でも、この感情が朽ちる事は許されない。そして、いずれそれは朽ちる前に彼女を壊してしまう。本能的にそう思った。
「…神田君が気にする事ない。嘘の事はごめんなさい。でも私が転校生だろうとなかろうと、神田君には関係ないよね?…これで話は終わり。それ以上でもそれ以下でもないから」
言い終わるや否や、彼女はさっと階下へ消えた。
…明らかな拒絶。
残された僕は深々と溜息をつく。
ずるいよ…綾桐さん。
何だかたまらなくなって空を仰いでいたら、大きな物音がした。急いで下に行こうとして、聞こえた声に足を止める。
「何度同じ事を繰り返せば気が済むのよ!!!!」
女子の金切り声。
次の瞬間、頬を張った音がした。そして「最っ低!」という怒声を残し、荒々しい足音とともに一人目は去っていった。しかし、2人目の足音はいつまでも聞こえない。
不安になり、階段を降りると、力なく座り込んだ綾桐さんがいた。
ぐったりと項垂れる彼女は、電源が切れたロボットみたいで、最早人間としての何かさえ失ったようだった。大丈夫なんて言葉じゃ心配にすらならなく思えて、掛ける言葉が何も見つからない。それでも…
「…綾桐、さん」
期待はしてなかったけど、反応はなかった。何と言っていいか分からない。
「…ごめん」
咄嗟に口をついたのは謝罪だった。頭の整理がつかなくて、それでもまずは彼女の目を見て話そうと思い、階段を降りる。
しっかり向き合って話そうと彼女の方を向いた時、視界が歪んで目の前が真っ暗になった。
ああ、もう。何でこんな時に…
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