記憶:大谷凛
山林 (一週間前)
▼チチチチチチ カサカサ
チチチチチチ カサカサ カサ
深い山の中で、凛は目を覚ました。
頭上にそびえる木々は葉を一枚残らず落とし、細い枝と幹のみになっている。
遠くには冬晴れの澄み切った空と、鮮明に浮かび上がる山々の稜線が広がっていた。
「う……」
凛は立ち上がろうとして呻き、愕然とした表情を浮かべた。
縛られている。
凛は厚手の服を着せられ、ダンボールの上に寝かされていた。縄がきつく体に食い込み、手足はしっかりと結わえられている。
立ち上がることすらできず、凛はジタバタと芋虫のように地面を這った。
「だれか!」
反射的に助けを呼んだものの、声はただ山の中へと吸いこまれていく。
凛は呆然としたまま寒空を見上げた。
「う……」
すぐ近くから声が聞こえた。
苦労しながら何とか首を回すと、斜面の上にもう一人、別の女性が縛られているのが見えた。
彼女も凛と同じタイプのダウンジャケットを着ており、ダンボールの上に横たわっている。
「大丈夫ですか?」
凛は声をかけると、勢いをつけてなんとか上半身を起こした。
「何よ、これ!」
と女性は大きな声を上げながら、クネクネと激しく体を動かした。
頬がこけ痩せてしまっている凛に比べ、女性の方はまだ少し元気が余っている様子だった。
「私にも分からないんです、頭がぼんやりして……。ずいぶん長いこと寝ていたような?」
凛は途方にくれた声でそう答えた。
女性はなんとかして凛の方を振り返り、大きく目を見開いた。「え? 凛ちゃん?」
二人の間に一瞬の沈黙がおとずれた。
落ち葉のカサカサという乾いた音だけが周囲に響く。
「ノブ子ちゃん!?」
少しして、凛も驚いた声を上げた。
原ノブ子と大谷凛、二人は得体の知れぬ者の手によって、そろって山の中に放置されていたようだった。
二人は協力し小一時間ほどかけてなんとか縄をといた。
放置されていた場所の近くには、湧き水がこんこんと流れる泉があり、自由になった凛とノブ子は喉を潤すことができた。
ポケットの中身を確認すると、サイフと身分証だけが入っていた。
スマホや食料になりそうなものは一切なく、水を汲むための適当な容器もなかった。
途方に暮れかけた二人だったが、ノブ子がダンボールに貼り付けられた汚れた地図を見つけた。地図には山々の等高線や泉の位置が記されており、数キロ先の人里までの道が描かれていた。
「……」「……」
二人は顔を見合わせた。
凛が再び空をあおいだ。すでに太陽はてっぺんを通り過ぎている。
ノブ子が「行くなら急ごう」と言って、座りこんでいた凛に手を差し伸べた。
凛はその手を取って立ち上がる。
二人は地図を見ながら獣道を歩き始めた。
「ふぅ~」
吐く息が白い。
雪はつもっていないものの、ところどころに霜がおりている。厚手の冬服を着てはいるが、夜になれば凍えてしまう可能性は高そうだ。
ノブ子と凛は何度も地図を確認し、支え合いながらゴツゴツした岩だらけの道を進んでいく。
途中、ドングリの木の下で大きな山猫に出くわした。山猫は目を丸くして二人を興味深そうに覗き込んできた。
「あなた、この近くで飼われているの?」
と、凛が猫に話しかけた。
「首輪がないし、たぶんノラ猫ね」
ノブ子は残念そうに首を振った。
凛が手を伸ばしてみたが、ノラ猫はフイと顔を反らし藪の中へと消えていった。
二人はため息をつくと、どちらともなく「行こう」と声をかけ合った。
少し進むと幅の広い道に出た。
葉がつもってはいるものの、明らかに人が歩くための山道だ。
ノブ子と凛は少し元気を取り戻した様子で、肩を並べて前へ前へと進んでいった。
冬の日没というものは早い。山の中ならなおさらだ。
太陽が茜色に染まり二人の顔に焦りが見え始めた頃、道沿いに一軒の古民家が現れた。
家の煙突からは煙が立ち上っており、人の気配が感じられる。
二人が安堵のため息をもらしながら近づいてみると、そこは商店のようだった。
【WONDERFUL DREAM 夢の食料品店】
のぼり旗に書かれた文字が風に揺れている。
遠くから見ると峠の茶屋を彷彿とさせるが、さまざまな食料品を取り扱っている店のようだ。
「助かったね。電話を貸してもらおう」
と凛が嬉しそうに言い、振り返った。
「私、もう喉カラカラ」
ノブ子は笑顔で首を押さえた。
一見して入口がどこか分かりづらい。二人は柵を越えて敷地内へと足を踏み入れた。
その家は、のどかな田園風景にしっくりと溶け込んでいるように見えた。
古びた茶色の木材、ひび割れた白い壁、そして雨風にさらされた赤い瓦は、新緑の風景と調和し、まるで時間が止まったかのような雰囲気を醸し出している。
彼女たちはぐるりと店の正面へ回り込むと、玄関に掲げられている看板を見た。
【携帯食・保存食をお売りします。品ぞろえ多数!
親切ていねい良心的】
玄関の軒下に置かれた大きな植木鉢には、魔除けの饕餮紋(とうてつもん)が彫られており、凛はその不気味な模様を見て一瞬足を止めた。
ノブ子は迷信深くないのか、それほど気にしていない様子だ。
山すそから、ビュウと強く風が吹きつけてきた。
ノブ子はブルリと体を震わせると、白い息を吐きながら玄関の扉を開けた。
ギイ…
中は静まり返っていて誰もいない。
「すいませ~ん」
「ごめんくださ~い」
と言いながら、二人はおそるおそる敷居をまたいだ。
「…………」
中から応答は無い。
木造の玄関は広く、ランプで照らされている。
床にはスリッパが並べられ、中央に大きめのプラカードが置かれていた。
そこには黄色の文字で、
【どうぞ靴を脱いで、奥の方へお入りください。決して遠慮はいりません。
とくに若い方や家族連れは大歓迎です】
と書かれていた。
二人は顔を見合わせ、互いに不安そうな眼差しをかわした。
外からはあいかわらず強い風が吹きこんでくる。
ノブ子は扉を閉め、うなずきながら「行こう」と言って靴を脱いだ。
凛もうなずき、スリッパに履きかえた。
スタッ スタッ スタッ
古い家のわりには気密性が高いらしく、足音だけがやけに廊下に響きわたる。
まだ寒さが残っているのか、凛は腕を巻き付けるようにして自分を抱きしめた。
突き当りには一つのドアがあった。そこには赤い文字で書かれた紙が貼ってある。
【時間限定販売! 現在タイムセール中です。
残り時間はどんどん少なくなっています、どうぞお急ぎ下さい。
TIME IS MONEY】
二人は意を決したような表情をしてドアを押した。
すぐに蛍光灯のまぶしい光が射しこんできた。
そこは広めの洋室になっていた。
正面の壁には大きな古時計がかけられ、チクタクチクタクと音を刻んでいる。
部屋の両サイドには黒い棚が並び、黒い缶詰がびっしりと並べられている。
中央には大きなストーブが設置され、その奥で蜂蜜色のジャケットを着た男が、のんびりとイスに腰かけていた。
「いらっしゃいませ」
二人に気づいた様子の男はイスから立ち上がると、せかせかとした足取りで近づいてきた。
「どうぞ、ごゆっくりご覧ください」
と、男はかしこまってペコリと頭を下げた。
「あの……私たち迷ってしまっていて!」
「ここはどこですか!? 電話を貸してもらいたいのですが!」
凛とノブ子は勢い込んで話し始め、自分たちが今どういう状況にあるのかを手短に説明した。
男は同情したようすで親身になって話を聞いてくれた。
「それは大変でしたね。さァさどうぞ、こちらにお座り下さい。外は寒かったでしょう」
男は手招きすると二人をストーブの近くに座らせ、置いてあったヤカンからお湯を注いで温かいお茶を入れてくれた。
「このあたりは良い野草が取れましてね。乾燥させて生薬にして売っているんです。これはそれをいかした薬膳茶です。暖まりますよ」
お昼から何も飲んでいなかった二人は礼を言い、お茶を喉に流し込んだ。
「電話をお貸ししたいのはやまやまなのですが、昨日家を出るさいスマートフォンを置いてきてしまいまして」
男は再びペコリと頭を下げた。
「そうなんですね……」
とノブ子はがっがりした様子で、そばにある格子のはまった窓を眺め、手でガラスの曇りを拭き取った。外はすでに真っ暗になっており、街灯などの明かりも全く見えない。
朝になったら山の麓にある町まで送る、と申し訳なさそうな顔で男は約束してくれた。
「助かります」
凛は礼を言いながらも、落ち着かない様子であたりをキョロキョロと見回した。
部屋の壁にはシカの頭の剥製や銃のレプリカが飾られており、それ以外のスペースは大量の缶詰で埋めつくされている。
どの缶も外装が黒っぽく塗りつぶされており、まるで自衛隊の戦闘糧食のようだった。
「それにしても、何年ぶりだろうね……」
「十年、とかじゃない?」
「アハハ。それは言い過ぎだって」
「いやいや、そんなもんだよぉ」
体が温まってくると、ノブ子と凛は少しリラックスした様子になり、暖炉に手をかざしながら昔話に花を咲かせ始めた。
男は湯呑にお茶のおかわりをつぐ時以外は、二人とは少し離れた所に座り、静かに会話に耳を傾けている。
パチパチ パチパチ
ストーブは下から薪をくべられるような構造になっており、男は手慣れた様子で新しい木を何本も継ぎ足していく。
グーー
凛がお腹をおさえて恥ずかしそうな顔をして笑った。
凛とノブ子の横に置かれたサイドテーブルには、飲み物はあっても腹にたまるようなものが一切ないのだ。
「あの、こちらは食料品店ですよね? 何か食べる物を買わせて欲しいんですが……」
とノブ子が遠慮がちに話を切り出した。
凛もノブ子の言葉にうなずきながらポケットから財布を取り出した。
「誠に申し訳ないのですが……」と男は、二人の顔を下からのぞき込みながら言った。「ここは特別な食料品店でございまして」
「えーっと、それってジビエとかですか? 私、そういうの好きな方です」
「私も」
ノブ子と凛は顔を見あわせて明るくうなずいた。
男はそれを聞くと、意味深な笑みを浮かべた。「イエイエ、そういったものではございません。普通では見られない、ある種の珍品を扱っております」
「珍……品……?」
急によそよそしい態度をしだした男に、二人は困惑の表情を浮かべた。
「当店はお腹を満たす普通の食べ物ではなく、プライド㎉を満たすための携行保存食を取り扱っております。はい」
男は黒い棚に近づくと、黒い缶詰を一つ手に取った。
缶の下には白い文字で〝四 60000㎉〟と書かれている。
「プライド㎉を満たす?」
凛は不安そうな表情でたずねた。
「ええ、ええ。かんたんに申し上げますとそれは〝肩書〟と呼ばれるものでございます。経歴・実績・名誉・栄誉といったものでございます」
と男は人が変わったように、ジャケットの襟を正すと饒舌に話し出した。
突然の奇妙な話に、ノブ子と凛は黙って顔を見合わせた。
「これらは非常に優れた食品でございます。かさばらないので何処へでも持っていくことが出来ますし、上手に使えば生涯にわたって喰べ続けることも可能でございます」
男はグイっとネクタイを直しながら胸をはった。
「当店は品ぞろえにたいへん自信をもっております。〝オリンピックのメダリスト〟〝ノーベル賞受賞者〟〝ハリウッドスター〟〝長者番付上位〟〝国会議員〟〝瑞宝章の叙勲者〟など、何でもござれだ」
男は手に持っている缶詰を上下に振った。中に何が入っているのか、ジャボジャボという奇妙な音がする。
「……すみません、プライド㎉って何ですか?」
と凛は顔を引きつらせながらも、丁寧な態度で話を合わせた。
「プライド㎉とは、目には見えない消化管から吸収される、心のエネルギーのことでございます」
男は片手で心臓をおさえると、芝居がかったようにその場でクルリと回ってみせた。
「え? 普通に食べれるものじゃないとしたら、その缶詰ってどんな時に役立つんですか?」
とノブ子がいぶかしげにたずねた。
男はヤレヤレといった風なジェスチャーをしてから、顔に満面の笑みを張り付かせて話し出した。
「どんな時ですって!? どんな時でも役立ちますとも! 同窓会で友達と話す時でも、親戚の集まりに参加する時でも、異業種の人たちと交流する時でも、飲み会で女の子を口説く時でも、旅行先で知らない人と話す時でも!」
どこでスイッチが入ったのか、男は完全にハイになっているようだった。
胡散臭いセールスマンのようなその話し方は、狂った悪魔すら連想させる。
「使い方は簡単でございます。ただ『私はこういう経歴の人間です』と、会話の合間にさりげなくお伝えになるだけ。それだけで周りの方々の態度が一変し、プライド㎉が充分に補充されます。一つ持っておくだけで、クオリティ・オブ・ライフに大きく貢献すること請け合いです」
男は自分の言葉に陶酔しているかのように、話を続けていく。
「もちろん、功績をひけらかさずに黙っていても結構でございます。自分の成果を自分で発表するのは何とも下品ですからね。特筆すべきは、自ら誇示せずともただ保持しているだけで、精神的な余裕が生じる点です。どれだけ他人の自慢話やマウントトークを聞いたとしても、確固たる経歴があれば心穏やかでございます」
ノブ子は、まるで何かに取り憑かれたかのように熱弁をふるう男の姿を見て、不安そうにゴクリと喉を鳴らしチラリと横を見た。
サイドテーブルに置かれた湯呑は、二つとも空になっている。
二人が言葉を失って黙っている間も、男は立て板に水のように話し続けた。
「部屋にお一人だけで居るような時でも、お使いになることができます。ご自身が達成された偉大な功績を、じっくりと噛みしめていただければ、心の奥から自信と活力が湧き上がってくるのです。この商品は、噛めば噛むほど美味しくなるのでございます」
「……」
「人生につまづき意気消沈され、同窓会などの集まりを避けがちな方々にも、ご購入を強くお勧めしております。リストラにあった社会人、ケガで競技を続けられなくなった運動選手、成績が落ちてしまった元優等生など、落ちぶれてしまった時は人に会いづらくなりますからね。この商品で新たな功績や栄誉を手に入れれば、昔の仲間とも堂々と会えるわけです」
男はツカツカとサイドテーブルの所まで歩いてくると、ノブ子と凛が飲んでいた湯呑をのぞきこんだ。
中は空になっている。
男はそばにあった筒を開け中から生薬を取り出し、パラパラと急須の中に入れた。
すぐにコポコポという耳障りの良い音をたてて、湯呑にお茶が注ぎ足されていく。
「他人からの〝尊敬の眼差し〟はまるで最高の調味料のように魂を満たします。〝謙遜〟という洗練されたテーブルマナーを用いれば、ヘイトを集めない優雅な宴となるでしょう。〝孤独のグルメ〟的に一人でほくそ笑んで、自分の優越を楽しむのも良いですし、マウントを取ってこようとしてくる悪い奴には、〝相手以上の実績を示す〟ことで爽快な気分を味わえます」
男は矢継ぎ早に言葉を繰り出すと、二人の方に向けて湯呑をグイと押しやった。
「……もう少し具体的に教えてもらえます?」
と先ほどまでに比べて、少し虚ろな目をしたノブ子が言った。
「もちろんです。はい」
男はノブ子の瞳をのぞきこむと満足そうな笑みを浮かべ、ペコリと一礼してから黒い棚の前に移動した。
「こちらはアスリートコーナーでございます。〝インターハイ出場〟〝大会記録保持者〟〝プロライセンス取得〟〝黒帯取得〟〝ユース出身〟〝実業団選手〟〝ゴルフのアンダースコア〟〝フルマラソンサブ3〟といった、スポーツでの華々しい成果を各種とりそろえております」
男は一呼吸おくと、一つ下の段を指差した。
「学歴シリーズですと〝早稲田〟〝慶応〟〝京大〟〝東大〟〝北京大〟〝ハーバード大〟〝オックスフォード大〟といった、一流大学の卒業証書や学位証書がございます。大学のランクが上がるほどその効果と価値も高まります。これらの品々はお客様の社会的地位を大いに向上させますし、会話の端々からは知的な魅力が漂うようになるでしょう。賢いということは人々からの尊敬を勝ち得る最も普遍的な基準となっておりますので、大変人気の商品となっております」
次に男は、その隣にある棚の前に移った。
こちらの缶詰は見るからに新しく、デザインも今風だ。
「最近の流行としまして〝フォロワー数〟〝登録者数〟〝再生回数〟〝PV数〟など、オンライン上での知名度や影響力を示すものも取りそろえております。これらは現代社会における新たな名声の基準でございます。そのうえ……」
「ちょっと待って! 値段は!? どれがいくらなの!?」
突然ノブ子が大声を発し、男のセールストークをさえぎった。虚ろな顔をして立ち上がった彼女の目は、瞳孔が完全に開いている。
バシャ
湯呑が倒れ、お茶がこぼれて床に広がった。ノブ子は気にせずフラフラと男に近づくと、質問を投げかけた。
「貼り紙には【時間限定販売】とか【タイムセール】って書いてあったけど、時間によって金額が変わるってわけ!?」
それを聞いた男は、体をくの字に曲げて笑いはじめた。
「ホーホッホッホ。いいえいいえ。【時間限定販売】というのは、お支払い方法を時間に限定している、という意味でございます」
「?」
「当店では商品と時間の等価交換を行っております。お金のかわりに寿命をいただくというわけです」
男は下品な笑みを顔に張り付けてニタニタと笑っている。
「え? なんですかそれ……じゃあ【タイムセール】というのは?」
と、凛が唇を震わせながら聞いた。
「はい。お代にタイムをいただくセール、でございますよ。ホーホッホッホ」
何がそんなにおかしいのか、男は腹を抱えて笑い転げている。
ピエロのようなその不気味な姿に、凛の顔は真っ青になった
「ホーッホッホッ。まぁまぁそんなに怯えずに。これはこれで、それほど悪い話ではないのです。普通の人生ではどれだけ時間を費やしても、目標を達成できないことなどよくあります。この取引条件は非常に良心的かと」
男はゲラゲラと笑いながら缶詰をひっくり返し、下に貼られたラベルを二人の方に向けた。
〝インターハイ出場〟 四 60000㎉
〝京都大学卒業〟 六 120000㎉
〝トップインフルエンサー〟 十 180000㎉
〝参議院議員〟 十二 220000㎉
「もうお分かりですね。〝四〟というのは四年のこと。〝十〟というのは十年のことでございます。参議院議員の肩書を差し上げる代わりに、寿命から九年を引かせていただきます。横の数字は食品が持っている潜在カロリーの量。少しづつ上手に喰べれば、その後の生涯でこれだけのプライド㎉を得ることができるわけです」
男はそう説明しながら、ズラズラと大量の缶詰をひっくり返し始めた。
ノブ子は食い入るようにそれを眺めている。
「若い方や女性にお勧めなのは、この容姿シリーズでございます!」
〝美容院のカットモデル〟 二年 25000㎉
〝インディーズバンドのメンバー〟 三年 33000㎉
〝大河女優〟 十五年 270000㎉
〝イケメンアイドルグループの一員〟 十一年 200000㎉
〝パリコレモデル〟 十八年 310000㎉
「このような肩書を得ることで、実際の実力以上に異性から評価されるようになります。さらにオシャレを少しだけ頑張れば、今日からモテモテになること間違いなし。見た目の価値をブーストしてくれるこれらの品々は、たいへん格安かと思われます」
男は隣の棚を指差した。
「こちらは男性に大人気の経済コーナー! 名刺を渡したり自己紹介をする際に感じる喜びは、筆舌に尽くしがたいものがあります」
〝一流企業の正社員〟 三年 40000㎉
〝大手外資系企業の重役〟 十四年 250000㎉
〝キャリア官僚〟 七年 170000㎉
〝士業〟 四年 50000㎉
〝社内で表彰される〟 半年 6000㎉
〝ミシュラン三ツ星レストランのシェフ〟 七年 150000㎉
〝多店舗の経営者〟 六年 130000㎉
〝マンションを一棟保有〟 六年 120000㎉
〝ハワイに別荘保有〟 五年 60000㎉
〝高級車のオーナー〟 四年 50000㎉
「続きまして芸術コーナーでございます! こちらも一目おかれること間違いなし!」
〝ニューヨークで個展を開く〟 十二年 250000㎉
〝Mー1優勝者〟 十六年 300000㎉
〝直木賞・芥川賞の受賞者〟 十二年 240000㎉
〝iTunes音楽ランク上位〟 八年 160000㎉
〝人気ゲームの製作者〟 七年 150000㎉
〝アニメの原作者〟 十三年 280000㎉
〝カンヌ映画祭ノミネート〟 十八年 330000㎉
「すべての品々は希少価値や印象値などによって、その商品価格が定められております。希少価値とは、その称号を得ている方が現在何人くらい居るかどうか。印象値とは、その称号でどれだけドヤれるかでございます」
カウンターの上は男がひっくり返した缶詰で一杯になってしまった。
「……それって、いつまで食べれるのよ?」
とノブ子が質問した。ギョロリとした目を何度も瞬かせている。
男は棚の方を向いたまま、首だけをぐるりとノブ子の方に回すと、ニヤリと笑いながら舌をチロチロと出し入れした。
「賞味期限のことでございますね? そちらの方は長めに設定されていますのでご心配なされずに。古くなって発酵した商品でも、ある程度は価値があるというわけです」」
男はふところから缶切りを取り出して、缶詰を一つ開け始めた。
「つまりは『元〇〇』という状態ですね。元宝塚歌劇団員、元プロ野球選手、元議員などです。『若い頃に〇〇をしていた』『昔〇〇をとったことがある』という形で話をすれば、歳をとって美貌や実力がかげってきていても、プライド㎉を増やすことができるわけです」
「……」
「『私はむかし宮内庁に勤めていたのよ』『俺は過去にベンチプレスを何キロ上げたぞ』『あの建物あるだろ、儂はあれの設計者だったんだぞ』など、一度得た名誉はスルメのように長く味わえるのでございます」
男は持っていた缶詰を開いて見せた。
中には一枚の白黒写真が入っており、キレイな女性の姿が写っている。
「たとえば『おばあちゃんは若い頃とびきりの美人だったのよ』と話しながら、孫や知り合いにこの写真を見せるだけで、多少なりともプライド㎉を摂ることができるのです」
男は別の缶詰を手に取ると、近くに持ってきて力強く振ってみせた。中からサラサラという音がする。
缶切りを使ってその缶詰を開けると、中には砂がぎっしりと詰まっていた。
「ここに入っているのは〝甲子園の砂〟でございます。高校野球で甲子園に出場した証ですね。長い時間を野球に捧げて得たこの栄光は、一度手に入れさえすれば末永く味わうことが可能です。これの使い方は工夫しだいです。自宅に飾って訪問者に見せるもよし、自分でながめて思い出にひたるも良し」
男は一度奥へ引っ込んむと、ボロボロのダンボール箱を持ち出してきた。
埃を払って中を開けると、なにやら古めかしいデザインの缶詰めが乱雑に入っている。
「時代が変わるにつれ権威やブランドの価値も変わります。こちらは賞味期限が切れ、発酵を通り越して喰べられなくなった商品でございます」
〝苗字帯刀を許される〟 五年 0㎉ (✕70000㎉)
〝選挙権を保有している〟 六年 0㎉ (✕90000㎉)
〝洗濯機・冷蔵庫・白黒テレビ〟 二年 0㎉ (✕15000㎉)
〝高額腕時計〟 四年 5000㎉ (✕50000㎉)
〝ブラックカード〟 六年 5000㎉ (✕90000㎉)
「江戸時代、苗字帯刀は特権的なステータスでした。明治時代には人口の1%にあたる資産家しか選挙権を持ちません。昭和初期に白黒テレビを所有していることは、今でいう8Kテレビやロボット掃除機以上に自慢の種でした。平成初期では時計やブラックカードを見せびらかすことで、かなりのプライド㎉を満たすことができましたが、令和の若者にはむしろ失笑されかねません」
凛は椅子から立ち上がり、フラフラとノブ子の横に寄りそった。彼女の目も少しずつ虚ろになってきている。
二人の様子をにんまりと眺めていた男は、カウンターの下に置かれた金庫のダイヤルを回し、中から金色に縁どられた立派な缶詰を取り出してきた。
「こちらは当店の目玉商品でございます。最初に紹介させていただきました〝オリンピックのメダリスト〟。その中でも最上級品の〝金メダリスト〟でございます」
「……これはどれくらいの時間で買えるの?」
と、熱に浮かされた顔をしてノブ子がたずねた。
「こちらは特別品となっておりますので、少々お高いですよ。そうですね……本人十年ぶん、親十年ぶんの寿命をいただきます」
男は電卓を叩きながら説明した。
「親の寿命までとるの!?」
と、横から凛が悲鳴のような声をあげた。
「もちろんご両親の同意があったうえでの決済となりますが」
男は契約書のようなものをチラリと見せた。
親と子の時間を大量に消費する旨が、ミミズが這ったような字でびっしりと書かれている。
「そんな……そんなのヒドイわ」
「そうね。それは暴利すぎ!」
焦点の合わない目をしながら、凛とノブ子は強く抗議した。
男は金縁の缶詰をいじくりながら、ヤレヤレといった様子で首を振り、大きなため息をついた。
「お言葉を返すようですが、こちらは大人気商品でございます。普段は品薄状態でなかなか手に入らないのですよ。オリンピックの金メダルを獲得するというのは、親の長年にわたる努力とノウハウに、子供の長い時間をかけた努力と才能が合わさって、やっと実現するほどのことなのです。たしかにおっしゃるとおり高額な商品ではありますが、そのぶん効果は抜群でございます。なぜなら、オリンピックの金メダルというのは〝親のプライド㎉〟をも充分に満たしてくれるからです」
男は意地悪そうにニヤリと笑いながら、先ほどの汚れたダンボール箱から別の缶詰を取り出した。
こちらも金縁の缶詰めだったが、一部が腐食してしまっている。
「ただしお気をつけ下さい。〝メダリスト〟や〝議員〟など最高級の保存食でも、スキャンダルなどが原因で腐ってしまい、喰べれなくなることがございます」
ノブ子はじっと何かを考えて込むように俯いたあと、意を決したように目を向くと、カウンターに並べられた缶詰めを手に取り「これとこれ、売ってちょうだい」と言った。
「ノブ子ちゃん!」
凛が眉をひそめて声を上げる。
ノブ子は「だ、大丈夫。そんなに高価なものじゃないから」と男の方に向かって、ヨロヨロとした足取りで歩き出した。
「やめて!」
と言いながら、凛はノブ子の前に立ちはだかった。
「時間は人生そのものよ。こんな名誉(もの)のために費やすべきじゃないわ。もっと大切にすべきことがある」
と、凛は虚ろな目に涙を浮かべながら言った。
「あんたには分からない!」
ノブ子は凛をにらみつけた。
「みんながみんな、あんたみたいに時間を上手く使って、楽しく充実して生きていけるわけじゃないの! 私なんて毎日ダラダラと過ごしてしまっていて……。これは投資よ、そう時間の投資! 残りの人生を満足して過ごすための賢い選択よ!」
と、ノブ子は目を向いて必死に反論した。
「ノブ子ちゃん……」
凛は声をつまらせた。
少しの間、二人は言葉を交わさず見つめ合った。
ヒュゥーウゥー ヒュゥーウゥー
チクタク チクタク チクタク
窓の外からの微かな風の音と、時計の針の音がだけが、まるで鼓動のように静かに繰り返されていた。
しばらくしてノブ子は後ろを向くと「こんなチャンスは二度と無いのよ……わかってちょうだい」と言って身体を震わせた。
「まぁまぁ、これはノブ子さんに限った話ではございません。多くの人が名誉を求め必死に毎日もがいております。」
二人の様子を静かに見守っていた男が、再び口を開いた。
「若者が〝自分探し〟をやりたがるのも、〝何者かになりたい〟と熱心なのも、つまりはそういう訳です。人はプライド㎉の安定供給によってのみ、ようやく心が満たされるのですから」
男は首をコキコキ鳴らすと、襟を正して胸をはった。
「とにかく、商品のほうは最後まで紹介させて頂きます。ここには何でもございます!」
〝町内会長〟 二年 27000㎉
〝市議会議員〟 七年 140000㎉
〝エリアマネージャー〟 三年 40000㎉
〝大学教授〟 六年 110000㎉
〝大病院の院長〟 十四年 250000㎉
〝茶道・華道・書道の師範〟 四年 60000㎉
〝プロ棋士〟 十年 180000㎉
〝Fー1レーサー〟 十八年 310000㎉
〝UFCファイター〟 十五年 260000㎉
〝腕利きの職人〟 五年 80000㎉
〝売れっ子声優〟 十四年 270000㎉
〝高僧〟 十五年 280000㎉
〝人間国宝〟 十八年 350000㎉
〝ブランド服を大量保有〟 一年 10000㎉
〝有名人と仲が良い〟 半年 4000㎉
〝バイリンガル〟 一年 8000㎉
〝プロeスポーツ選手〟 七年 130000㎉
〝紅白出場歌手〟 十一年 200000㎉
〝民間資格取得〟 半年 4000㎉
〝弁護士などの難関国家資格取得〟 八年 160000㎉
〝技術教官〟 二年 40000㎉
〝ヒット商品の開発者〟 七年 140000㎉
〝宇宙飛行士〟 十八年 330000㎉
「こちらが若い男性に一番人気の商品です」
男は説明しつつ、手に持っている缶詰を示した。
それには 〝一流サッカー選手 二十年 400000㎉〟 と書かれている。
「日本代表としてワールドカップに出場、という経歴です。海外などでも非常に尊敬されますし、ウイニングイレブンをプレイすると、そこに自分の名前が載っているんですよ。激熱商品でございま……」
男の言葉を聞き終わる前に、ノブ子はその場にくたっと力なく倒れ込んだ。
すぐに凛が駆けより、ノブ子を支えて起こそうとしたが、彼女の顔はすでに紫に変色していた。
息をしているのかどうかさえもよくわからない。
「……死者にも名誉が必要なの?」
凛はノブ子を抱いたまま、かすれた声でつぶやいた。
「おかしなことを聞かれますね。もちろん死者に栄養は必要ありません」
男は急に表情を変えて話し始めた。先ほどまでの軽い口調とは打って変わり、声のトーンがぐっと落ちている。
「プライド㎉とは食事です。生存していくためには食料が不可欠ですが、結局のところ『ただの食べ物に過ぎない』とも言えるわけです」
真剣な眼差しを浮かべはじめた男とは対照的に、瞳孔の開ききった凛が笑い声をあげた。
「アハハハハ、ただの食べ物? それじゃ時間を投資して、プライド㎉のために頑張っても、年をとったら意味ないじゃない!」
男は戸棚からロープを取り出しながら、凛の方をじっと見つめ返した。
「いえいえ、高齢だからといっても食事は必要ですから、まるっきり無価値というわけではありませんよ。人間はたとえ九十歳であってもプライド㎉を欲するのです。〝大きなお墓〟〝過去の実績〟〝立派に成長した子や孫〟〝グランドゴルフの腕前〟などなど、その種類は数え切れないほどです。これらは町内のご近所さんや老人会の人たち、同じホームに入っている入居者さんなどに自慢でき、亡くなる寸前まで喰べることができるのです」
「……」
凛は朦朧とした様子で、ノブ子の上に崩れるように倒れ込んだ。
そこで彼女の意識はプッツリと途切れた。
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